青木周蔵
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青木 周藏(あおき しゅうぞう、天保15年1月15日(1844年3月3日) - 大正3年(1914年)2月6日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の外交官・政治家。勲等は勲等。爵位は子爵。
概要[編集]
第5代・第6代・第15代の外務大臣を務め、外相・外務次官として欧米列強の日本国内での領事裁判権(治外法権)の撤廃に尽力した。
生涯[編集]
長州藩の藩士・三浦玄仲の長男で、長州藩医・青木研蔵の養子になる[1]。医学や洋学を修め、明治時代に入ると外交官となる[1]。明治6年(1873年)に外務一等書記官としてドイツに駐在し、明治7年(1874年)に特命全権公使としてドイツに駐在し、明治11年(1878年)にはオランダ公使も兼任する形で任命された[1]。明治19年(1886年)3月に外務次官に任命され、5月には子爵を授けられる[1]。明治22年(1889年)には外務大臣に任命され、明治23年(1890年)に貴族院議員になった[1]。しかし明治24年(1891年)に大津事件が起こるとその事件の責任を取る事になり、外務大臣を辞職した[1]。
明治25年(1892年)にドイツ、ベルギーの公使を兼任し、明治31年(1898年)に再び外務大臣に任命される[1]。明治39年(1906年)にアメリカ駐在大使に任命され、明治41年(1908年)に日本に帰国して枢密顧問官に任命された[1]。
大正3年(1914年)2月6日、肺炎のため死去した[1]。享年71[1]。