霍峻
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霍 峻(かく しゅん、177年 - 216年)は、中国の後漢末期の武将。字は仲邈(ちゅうばく)[1]。兄は霍篤。子は霍弋。
生涯[編集]
荊州南郡枝江県の出身[1]。兄の霍篤の死後、劉表の命令でその軍勢を引き継いだ[1]。208年に劉表が死去すると劉備に仕え、劉備の入蜀に従軍して葭萌の守備を務めた[1]。葭萌は劉璋配下の扶禁や向存ら1万余の軍勢に包囲されるが霍峻は向存を斬り殺して守り通した[1]。
劉備が益州を平定すると、霍峻は梓潼郡太守、裨将軍に兼任の形で任じられた[1]。しかしそれから3年後の216年に死去した[1]。享年40。
劉備は霍峻の死を悲しみ、葬儀に自ら参列して墓所の傍で宿泊した[1]。
『三国志演義』では孟達の推挙で劉備に仕え、葭萌の守備を務める。演義では史実の没年から3年後の漢中郡争奪戦でも登場して孟達とコンビを組まされているが、史実ほどの活躍は描かれず成都から厳顔や黄忠の老人コンビが援軍にやって来るとそれをあざ笑う偏狭な人物として描かれている。