難波田城

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難波田城(なんばたじょう)は、埼玉県富士見市大字下南畑568-1にかつて存在した日本である。現在は難波田城公園として整備されている。

概要[編集]

富士見市東部、荒川と新河岸川に挟まれたところに存在したである。難波田氏館(なんばたしやかた)とも言われる。この辺りはその昔、わずかに盛り上がった台地が存在していたとされ、それを利用して居館が築かれていた。起源については12世紀後半の鎌倉時代の初期、武蔵七党の村山党の一族である難波田氏(金子氏とも)の一族である難波田高範金子高範)により造られたといわれる。ただ、高範が築いたのは東大久保城であるとされるなど、このあたりの築城の経緯がはっきりしていない。城構えが一応整備されたのは、14世紀南北朝時代頃と見られている。

戦国時代になると、後北条氏すら恐れさせた勇将・難波田憲重が現れ、彼は扇谷上杉氏に仕えて北条氏康と戦い、氏康を恐れさせた。しかし天文15年4月20日(1546年5月19日)の河越夜戦で憲重は河越東明寺口において壮烈な最期を遂げ、この際に難波田城も氏康に奪われた。以後、後北条家の属城として機能したが、天正18年(1590年)の小田原征伐において豊臣氏の軍勢による攻撃を受けて落城し、この際に廃城となった。

江戸時代には城跡に修験道の十王院が築かれて威容を誇るも、明治時代前期の廃仏毀釈によって廃絶している。現在は難波田城公園となっており、城の遺構はほとんど存在しない。埼玉県から旧跡に指定されている。

外部リンク[編集]