都於郡城
都於郡城(とのこおりじょう)とは、現在の宮崎県西都市大字鹿野田にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
日向国の地頭を務めた伊東氏の居城であった。伊東氏は鎌倉時代前期に日向国の地頭に就任したが、日向国には在国せずに伊豆国の伊東に居住していた。鎌倉幕府滅亡後に政権を掌握した室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏より当時の伊東氏の当主・伊東祐持は元弘の乱などの戦功を評価されて都於郡を与えられる。そして延元2年/建武4年(1337年)に都於郡に下向すると、ここに城を築いたという。
以来、伊東氏はここを居城として勢威を振るい、そして各地に支城を築いて日向国全土にその勢威を拡大した。だが、天正5年(1577年)に島津義久の侵攻を受けて当時の当主・伊東義祐は敗北して都於郡城は落城。義祐は伊東一族を引き連れて豊後国の大友宗麟を頼って落ち延びた。この時にほぼ廃城同様となった。
なお、永正元年(1504年)3月に大規模な火災で都於郡城は焼失しており、しかも城下町にまで被害は拡大し、この際に伊東氏歴代の宝物類など大半を焼失したことから、伊東氏はここをなおも再建して居城としながらも、実際はここから東におよそ4キロの地点にあった佐土原城を事実上の居城として詰めることも多かったという。また、その位置から島津氏との争奪戦も多く、兵火に巻き込まれることが少なくなかった。
記録上では中世の城であるが、7つの入り口を備えた大規模な城で、緊急時には8000人近い兵士を収容することも可能だったとされる。都於郡城は都於郡一帯の高さ100メートル前後の丘を利用して本城、そしてそれを囲む支城を築き、堀や池を配して要塞化したものと見られている。中世式城郭の典型的な形であるが、本城ですら本丸、2の丸、3の丸に分かれており、3の丸だけで斥候城(ものみじょう)と言われるほどだったという。
現在は本城、支城の跡や堀跡などが残されており、往時の堅城ぶりをうかがわせている。