近衛声明

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近衛声明(このえせいめい)とは、昭和13年(1938年)に日本近衛文麿首相が出した対中国政策に関する声明である。この声明により事実上、日中戦争は泥沼化したと言われている。なお、この声明は3回に分かれており、そのため第1次近衛声明・第2次近衛声明・第3次近衛声明と分かれているが、ここでは全てを扱う。

概要[編集]

昭和12年(1937年)から始まった日中戦争には道筋が見えなくなり、そのため同年10月に日本政府は日中和平の斡旋をナチス・ドイツに求め、ナチス・ドイツはこれを受けて駐華大使のオスカー・トラウトマン蒋介石中華民国政府に対して講和条件を提示した(トラウトマン工作)。この工作は当初はうまくいっていたが、南京占領などで勢いに乗る日本政府が調子に乗りすぎたこともあり、条件をさらに厳しくした。このため、蒋介石は昭和13年(1938年1月になって日本側に要求の細目の説明を求めたが、前年末までの回答を求めていた日本はこれを中華民国側に誠意が無いと見なして交渉を打ち切ってしまった。そして、有名な近衛声明を出すことになる。

  • 第1次声明(昭和13年1月16日) - 「爾後、国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して、更生新支那の建設に協力せんとす」。
    • この声明は「今後、国民政府を相手とせず」で非常に有名である。この声明によりトラウトマン工作は事実上破綻し、蒋介石も1月18日に日本の傀儡政権を一切認めない旨を宣言し、両国は本格的な戦争状態に突入することになった。
  • 第2次声明(昭和13年11月3日) - 第1次声明による「対手とせず」の部分を事実上訂正し、日本が求めているのは東亜新秩序の建設であるとして、「固より国民政府と雖も、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改善して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるに於いては、敢えて之を拒否するものにあらず」とした。
    • この声明は第1次声明をやわらげたもので、新秩序建設の任務を中国と分担したい旨の希望表明と言えた。
  • 第3次声明(昭和13年12月22日) - 「日中国交調整につき、善隣友好、共同防共、経済提携の三原則を声明」(いわゆる近衛三原則)。
    • 日中の友好ムードを演出しているが、三原則のうち、共同防共については「日満支三国は協同して防共に当たると共に、共通の治安安寧の維持に関し協力する」として「防共駐屯」と「治安駐屯」の名目で日本軍の駐兵権並びに撤兵を認めないという日本側に余りに有利な内容で、一見すると侵略的な内容にもなっていたとされている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]