赤松則英

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赤松 則英(あかまつ のりひで、? - 慶長5年10月1日1600年11月6日))は、安土桃山時代武将赤松氏最後の(14代)当主とされる。阿波国住吉の1万石の大名

略歴[編集]

曽祖父は赤松晴政、祖父は赤松義祐、父は赤松則房。この則英については実在人物かどうかの疑いが持たれている。赤松氏と同じく阿波を支配していた蜂須賀氏の記録によると則房には嫡子が無かったとしており(『蜂須賀家記』)、江戸時代の記録では則房と則英は同一人物であると記録している(『武家事記』)。あるいは慶長3年(1598年)に則房が死去した際に迎えられた養子であるとも考えられている。

則英については受領名は上総介。慶長3年(1598年)7月に則房が死去したため、住吉1万石を継承したという。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して大坂の天王寺と平野口の間の警護を努めた。その後、石田三成居城である近江佐和山城籠城に加わったが、9月17日に佐和山城は小早川秀秋東軍に寝返った諸大名の軍勢に攻められて落城し、則英は京都に逃亡した。しかし東軍の追討を受けて10月1日に戒光寺自殺したという。