費詩
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費 詩(ひ し、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期から三国時代にかけての蜀の政治家。字は公挙(こうきょ)[1]。子は費立。
生涯[編集]
益州犍為郡南安県の出身[1]。最初は劉璋に仕えて綿竹県令を務めるが、劉備の入蜀で降伏する[1]。219年に劉備が漢中王に即位すると関羽を前将軍に任命する使者になり、黄忠と同列に扱われるのを嫌う関羽を説得した[1]。221年に劉備が皇帝に即位するのに反対したため劉備の怒りを買い、永昌従事に左遷される[1]。
劉備の死後、諸葛亮の南征では復帰して従軍[1]。諸葛亮の北伐では諸葛亮が元蜀将の孟達を内応させようとした際にはその価値なしと反対したが聞き入れられず、諸葛亮は失敗している[1]。諸葛亮の死後、蒋琬の下で諫義大夫となった[1]。
後年、劉備の即位に反対したことを逆に非難されている。
『三国志演義』でも関羽説得の使者として登場する。劉備即位に反対したことは描かれていない。