豊国大明神祭礼記
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豊国大明神祭礼記(ほうこくだいみょうじんさいれいき)とは、豊臣秀吉の治世と朝鮮出兵に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は太田牛一。成立は江戸時代前期の慶長15年(1610年)頃である。
別称は『豊国大明神御祭礼記録』(ほうこくだいみょうじんごさいれいきろく)、『豊国大明神臨時御祭礼記録』(ほうこくだいみょうじんりんじごさいれいきろく)。
内容[編集]
全1巻。前半と後半に分かれている。
- 前半 - 豊臣秀吉の治世を賛美し、朝鮮出兵に関する記録である。秀吉に対して太田はやけにバイアスをかけており、「日本軍は不敗であったので、大明国は2度にわたり和平の使者を派遣してきたが、いずれも明側が違約したので和解はならなかった」「しかし秀吉は使者を殺害せず、大きな度量をもって憐愍の態度を示した」などと書いている。秀吉の死については慶長3年(1598年)8月17日丑刻、62歳で死去としており、1日死がずれている。秀吉の有名な辞世である「夢」を記載しており、墓所や豊国社の創建、豊国大明神として祀られたことを記している。
- 後半 - 関ヶ原の戦いについての記録は無い。秀吉7年忌に当たる慶長9年(1604年)の「豊国大明神臨時御祭礼記録」についてである。秀吉の嫡子で後継者である豊臣秀頼の命令でこの祭礼が盛大に挙行され、京都の町衆などが大いに熱狂したことが詳細に記されている。これはまだ関ヶ原から4年、江戸幕府成立からでも1年後であり、まだまだ豊臣氏に大きな影響力があったことを示している。