裴潜 (魏)
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裴 潜(はい せん、? - 244年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の政治家・武将。字は文行(ぶんこう)[1]。父は裴茂。弟は裴儁・裴徽。子は裴秀。
生涯[編集]
司隷河東郡聞喜県の出身[1]。動乱を避けて荊州に逃れた際に劉表から仕官の誘いを受けるが、裴潜は劉表の器量の限界を見抜いて出仕しなかった[1]。208年に曹操が荊州を平定すると参丞相軍事に取り立てられた[1]。その後、代郡太守に任命されて鳥丸を帰服させるのに功績を挙げる[1]。3年後に中央に召喚されるが、この際に自分がいなくなれば鳥丸が離反するのを見抜いていたとされ、予測通り鳥丸が反乱を起こした[1]。
以後は兗州刺史・荊州刺史など地方官を歴任し、明帝の時代に中央に召喚されて尚書に任命され、以後も高官を歴任する[1]。父が死去すると辞職するが、間もなく光禄大夫に任命され、244年の没後には太常を追贈された[1]。諡号は貞侯[1]。