衛覬
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衛 覬(えい き、?(生年不明) - 230年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の政治家・学者。字は伯儒(はくじゅ)[1]。子は衛瓘・衛寔。孫は衛恒。曾孫は衛玠。
生涯[編集]
司隷河東郡安邑県(現在の山西省夏県)の出身[1]。若い頃から才能に恵まれ、曹操に招聘されて司空補佐となる[1]。後に茂陵県令・尚書郎に任命される[1]。曹操が袁紹と対立した際、劉表への牽制の必要から益州の劉璋に使者を送ろうとしたが、その使者に衛覬が任命された[1]。しかし衛覬が長安に来た時に益州への道が遮断されていたため関中に留まり、荀彧に手紙を出して関中の復興に尽力した[1]。後に中央に召還されて尚書に任命され、魏帝国の成立に貢献した[1]。明帝の時代には聞郷侯に昇進し、230年に死去して敬侯と諡された[1]。
衛覬は書体にも精通し、書道においても後世に名を残した[1]。
『三国志演義』には登場しない。