荒井頼母

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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荒井 頼母
あらい たのも
性別 男性
時代 江戸時代前期
生年月日 不詳
死没日 慶安4年4月20日1651年6月8日
死因 切腹
肩書き 阿部氏・家臣
国籍 日本国旗.png日本
補足 主君に殉死した。

荒井 頼母(あらい たのも)は、江戸時代前期の岩槻藩主・阿部氏家臣

生涯[編集]

阿部重次に仕えた側近の家臣。慶安4年(1651年)4月20日、江戸幕府の第3代将軍徳川家光が死去した際、同日夜に老中で頼母の主君である重次は殉死することを決意し、頼母に自らの介錯を命じた。頼母は重次が切腹すると、刀を振り下ろした。ところが、主君を介錯するのに恐れた頼母は刀をうまく振るえず、その刀は重次の肩に当たった。重次は「落ち着いて斬れ」と述べた。しかし、再び振り下ろした時も頸には当たらず、重次は「よく見て斬れよ」と述べた。それに対して頼母は「主君を手にかけるので天罰なのでしょうか。目が見えません」と泣きながら述べて小刀を出すと「これまでです」と述べて重次を一思いに刺し殺した。そして、主君を殺したその小刀で自らも自害した。頼母は近習の弥右衛門が介錯し、その弥右衛門も自害した。