義農作兵衛

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義農作兵衛(ぎのうさくべえ、貞享5年2月10日1688年3月11日) - 享保17年9月23日1732年11月10日))は、江戸時代中期の伊予国松山藩筒井村(現在の愛媛県松前町)の農民である。飢饉の折に種もみを口にすることなく餓死したため、後世に義農作兵衛と称されており、名は単に作兵衛である。

生涯[編集]

貧しい農家の生まれで、享保17年(1732年)に享保の大飢饉で村が大被害を受けた際に父や子供を失い、自身も倒れた。村人は家に残る種麦を食べて養生するように勧めたが、作兵衛は「種子は農の本で個人の命に代えることはできない」と説いて拒否し、種麦の俵を枕にして同年に餓死したという。

命を犠牲にしてまで種麦を守ったことから、義農作兵衛として称えられ、没後45年たった安永6年(1777年)に当時の松山藩第8代藩主の松平定静が、作兵衛を称える石碑「義農の墓」を建立した。
明治時代になるとさらに顕彰され、明治14年(1881年)には最初の義農神社が創建された。さらに戦前の修身教科書で作兵衛は登場し、松前町は現在、歴史文化の顕彰事業として毎年4月23日義農祭を催している。また、松前町では町民の心の柱として「義農精神」を学校で学習することになっている。

現在、作兵衛は「瑞穂建功命」(みずほたていさおのみこと)として祀られている。

その他[編集]

松前町に醸造所をもつ義農味噌は、神として祀られた義農作兵衛にあやかった社名である。

関連項目[編集]

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