義農作兵衛の墓
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義農作兵衛の墓(ぎのうさくべえのはか)とは、愛媛県伊予郡松前町筒井に存在する墓である。
概要[編集]
松前駅の北およそ600メートル、旧国道沿いにある墓である。
義農作兵衛とは、現在の松前町筒井のあたりで3反の田畑を耕す百姓であったが、享保17年(1732年)の享保の大飢饉で松山藩で3400人に及ぶ餓死者を出した際、作兵衛も父と長男を相次いで失い、自らも飢え死に寸前となった。この際、作兵衛の手許にはその年の秋に撒く予定だった麦種があり、これを食べることで飢えを凌ぐことも可能だったが、これを食べては百姓の本分に外れるとして手を付けず、そのまま餓死を遂げたという。この作兵衛の悲壮な死を知った松山藩主の松平定静は、安永6年(1777年)に「義農之墓」と掘った墓碑を建立。この石碑は今も現存し、その背後に作兵衛の墓がある。墓の傍らには、明治14年(1881年)に作兵衛を祀って建立された義農神社も存在する。