紀伊田辺藩
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紀伊田辺藩(きいたなべはん)は、江戸時代初期から明治時代初期を通じて紀伊国に存在した藩である。藩庁は紀伊田辺城。現在の和歌山県田辺市に存在した。
なお、藩として正式に認められたのは明治政府による維新立藩の時であり、それまでは和歌山藩の知行地の一部であった。
領主の安藤氏は、徳川御三家の一つである紀伊徳川家(和歌山藩主)の付家老で、通常は和歌山城下に在勤して藩の内政を担当し、江戸幕府からは陪臣の身分とされた。
概要[編集]
元和5年(1619年)、徳川家康の息子である徳川頼宣が和歌山に入封した際、家老の安藤直次が3万8000石で遠江国掛川藩から田辺に入り、ここに田辺領が成立する。安藤直次は大名クラスの所領は持っていたが、あくまで身分は「和歌山藩主の補佐」であったため、正式に独立した藩主としては認められなかった。所領は牟婁郡の田辺付近、南日高、名草郡と有田郡に飛び地を持つ複雑なものであった。なお、藩政や民政に関しての制度は和歌山藩とほとんど変わりはない。
明治元年(1868年)、明治政府より正式な藩として認められて田辺藩が立藩する。明治2年(1869年)の版籍奉還を経て、明治4年(1871年)の廃藩置県により田辺藩は消滅した。
歴代当主・藩主[編集]
3万8000石(譜代、立藩は1868年)。
- 安藤直次(なおつぐ)
- 安藤直治(なおはる)
- 安藤義門(よしかど)
- 安藤直清(なおきよ)
- 安藤直名(なおな)
- 安藤陳武(のぶたけ)
- 安藤陳定(のぶさだ)
- 安藤雄能(かつよし)
- 安藤次由(つぐゆき)
- 安藤寛長(ひろなが)
- 安藤次猷(つぐのり)
- 安藤道紀(みちのり)
- 安藤直與(なおとも)
- 安藤直則(みちのり)
- 安藤直馨(なおか)
- 安藤直裕(なおひろ)
- 安藤直行(なおゆき)
- 安藤直裕(16代の再勤)