箕輪の戦い

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箕輪の戦い(みのわのたたかい)とは、戦国時代天文13年(1544年)11月に信濃国上伊那郡箕輪で行われた武田晴信藤沢頼親の戦いである。

概要[編集]

天文10年(1541年)に父の武田信虎駿河国今川義元の下に追放して家督を相続した嫡男の晴信は、父が行なっていた信濃攻めを継続し、天文11年(1542年)には諏訪氏を滅ぼし、さらに宮川の戦いにも勝利して、諏訪郡全域を掌握した。

さらに晴信は、諏訪に味方していた福与城主の藤沢頼親を追って上伊那郡に侵攻し、福与城を攻略して頼親を降伏させた。しかし、宮川合戦で敗北した高遠頼継はなおも諏訪郡の奪回を目指して機会を伺い、調略が成功して頼親は再度、晴信に対して叛旗を翻した。

高白斎記』によると、頼親の離反を知った晴信は天文13年(1544年)10月16日に甲府を出陣し、諏訪にしばらく滞在した後、10月28日酉刻に伊那口の有賀に着陣。10月29日に先発隊を荒神山に派遣し、11月1日には近隣を放火した上で荒神山砦を攻めた。荒神山砦は福与城の出城であり、ここには信濃守護の小笠原長時の援軍として草間肥前守が入っていた。晴信は同母弟の武田信繫を総大将として攻めさせて攻略させた。『小平物語』によると、「三時ばかりで攻落し、雑兵120人余りの首を討ち取った」とある。

11月2日、晴信は福与城に迫るが、城兵も松嶋原まで繰り出して合戦に及んだ。この戦いの詳しい経緯は史料はたった1つしかないので不明な点も多いのだが、それによると「今2日酉刻、信州中伊那箕輪松嶋前において、首一つ討ち取るの事、神妙の至りに候」と晴信が水上菅七なる者に宛てた感状にある。つまり、2日に野戦で武田晴信と藤沢頼親が激突し、晴信が勝利したと見てよいと推定される。『高白斎記』には「武田方が敵の首を126も討ち取った」とある。

しかし、これだけの敵の首を取りながら、晴信は福与城を攻略することができず、さらに高遠頼継が後詰を差し向けたこともあり、11月26日に諏訪に帰還している。このことから、126も首を討ち取ったには疑義が存在する。晴信は諏訪にしばらく留まった後、12月9日に甲府に帰還した。晴信が甲府に帰還したことを知った頼継は、12月8日の夜には行動を起こして諏訪郡に攻め入り、諏訪上社の神長官であった守矢頼真の屋敷に放火したりしている。

この戦いは一応、晴信の勝利であるが、痛み分けと見ることもできるかもしれない。しかし、翌天文14年(1545年)に晴信の巻き返しを受けて、高遠頼継と藤沢頼親は没落することになる(高遠合戦)。