稲垣示

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稲垣 示(いながき しめす、嘉永2年8月20日1849年10月6日) - 明治35年(1902年8月8日)は、明治時代政治家衆議院議員。幼名は恒太郎。号は虎岳(こがく)。

経歴[編集]

越中射水郡棚田村(後に富山県二口村、現在の射水市)出身。生家は豊かな地主であった。野上文山らに学び、明治維新後は新川県小学校教員講習所・石川県農業講習所に学ぶ。

最初は小学校の教員となっていたが、明治13年(1880年)に高岡に同志を集め、富山県で最初となる政治結社・「北立社」を結成した。福島県河野広中高知県片岡建吉らと国会開設の請願書に名を連ね、明治15年(1882年)には高岡の瑞竜寺北立自由党を結成した。

明治18年(1885年)、朝鮮半島の独立運動を支持する自由党大阪事件連座して逮捕されて入獄。出獄後の第3回衆議院議員総選挙以来、連続して衆議院議員となって足尾銅山事件普通選挙運動に尽力する。

明治35年(1902年)8月、第7回衆議院議員総選挙における選挙演説中に倒れて急死した。52歳没。

富山県における自由民権運動の先駆者として、現在稲垣の生誕地には記念碑が建立されている。