福島源次郎

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福島源次郎(ふくしま げんじろう、1932年(昭和7年) - 1998年(平成10年)は、創価学会の元副会長。熊本県出身。

のちに創価学会に批判的な立場となり、創価学会を脱会して、日蓮正宗の法華講員になった。

経歴[編集]

日蓮正宗・創価学会への入信後 [編集]

  • 1961年(昭和36年)に(株)富士電機を退社し、創価学会の本部職員となる。以後、聖教新聞編集総局長、編集主幹、専務理事のほか、創価学会男子部長、青年部長、文化本部長などの役職を歴任した。創価学会の機関紙『聖教新聞』の第四代編集長(初代編集長は石田次男)を務めた。。
  • 1972年(昭和47年)に創価学会副会長に就任した。当時は池田大作(第3代会長)に心酔し、「師への帰命」を盛んに学会員に提唱した。また、小説『人間革命』(池田大作の著書)を「現代の御書」と位置付け、その学習運動を推進した。
  • 1979年(昭和54年)3月に創価学会の「九州大牟田会館」における指導の内容、いわゆる「大牟田発言」が日蓮正宗(宗門)より問題視され、その責任をとる形で、創価学会の一切の役職を辞任し、九州に移転した。以後、創価学会の外郭企業(創価学会の系列会社)である(株)日本図書輸送に勤務した。

創価学会に批判的な立場となる[編集]

  • 1986年(昭和61年)4月、池田大作に宛てに「誠諫之書」を送付した。その直後より激しい攻撃にさらされる。なお同論文は石田次男を経て内藤国夫にわたり、マスコミに流出し、保守系の雑誌諸君!』に掲載された。また1986年(昭和61年)12月、「続・誠諫之書」を送付した。(いづれも、創価学会や池田大作への批判的な内容の論文)
  • 1988年8月に「破邪強言之状」を提出した。
  • 1990年(平成2年)に福島源次郎が、鷹書房(出版社)から『蘇生への選択』を刊行した。同書籍の第五章「諌言と破折の書状」は「誠諫之書」「続・誠諫之書」「破邪強言之状」の三書を収録した。(創価学会への批判的な内容の論文)
  • 1992年(平成4年)3月に日蓮正宗法華講(信者団体)の一つである「蘇生講(そせいこう)」を結成した。一部の創価学会を脱会して辞めた人達も「蘇生講」に参加した。
  • 1998年(平成10年)8月8日に病気のために死去。享年66歳。

著書[編集]

 『蘇生への選択』鷹書房 1990年(平成2年)2月11日に出版。 ISBN 480340366X C0015 P1800E

人物[編集]

  •  福島源次郎は、東京大学卒業の高学歴で、頭が良くて創価学会の「教義の理論」(教学)に明るかった為に、全盛期には池田大作(会長)の側近の幹部の一人として池田大作(会長)に側近の幹部として重用されて、一方で、池田大作(当時、創価学会の会長)にこびへつらう発言が多く「ゴマ源(ゴマスリ源次郎の略)」の「あだ名」があった。実際、創価学会内で池田大作を「現人神(あらひとがみ)」(生き仏様)として扱う教義「池田大作本仏論」の原型を築き、山崎正友(創価学会の幹部で、創価学会の顧問弁護士)とともに池田大作を「仏様」であるかのように学会員に宣伝した。内容を全国に広めて学会員を「心理操作」(マインドコントロール)した。
  • しかしその後、福島源次郎 自身が、次第に池田大作(会長)の指導に疑問を抱くようになり、創価学会に批判的な立場の側に立つようになった。福島源次郎自身の言葉によれば、池田大作(会長)の「目にあまる偽善性に絶望し」、ついに「禄を食(は)むべきにあらず」と決意したとのこと(『蘇生への選択』78頁)。
  • 創価学会を脱会して辞めた後も、日蓮正宗(法華講)に対する「日蓮大聖人の仏法」の信仰を捨てず、「求道」・「研鑚」・「思索」の日々を重ねた。
  • 学会歌「前進の足音」「団結堅く」の作詞者である。
  • 池田大作(名誉会長)の著書である小説『新・人間革命』の登場人物「鮫島源治」のモデルとされている。