石川貞通
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石川 貞通(いしかわ さだみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏、後に南部氏の家臣。丹波・山城で1万2000石の大名である[1]。
略歴[編集]
前半生や出自に関しては不明[1]。羽柴秀吉には少なくとも小牧・長久手の戦い前までには仕えていたようである。天正17年(1589年)に山城における検地を担当し、その後は小田原征伐や朝鮮出兵にも参加して武功を挙げた。慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去した際、守光の刀を与えられている。また、秀吉没後の慶長4年(1599年)から慶長5年(1600年)までに山城国内と丹波天田郡内において1万2000石の所領を与えられ、大名に昇格している[2]。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大坂の天王寺を警備し、さらに丹後田辺城攻め(田辺城の戦い)に参加。西軍が壊滅すると徳川家康の命令により改易に処され、慶長6年(1601年)9月に陸奥盛岡藩主の南部利直に預けられた。子孫は南部氏の家臣となっている[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]