真田信勝
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真田 信勝(さなだ のぶかつ、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の3男。真田信之(信幸)・真田信繁(幸村)の異母弟にあたる。
生涯[編集]
真田昌幸の4男、あるいは3男と言われている。通称は左馬助。江戸幕府の旗本となり、慶長10年(1605年)に徳川秀忠が上洛した際には、大番組として供奉した。
慶長14年(1609年)9月に戸田氏勝(半之丞)と喧嘩に及び、斬り殺されたという。ただし命日に関しては6月19日とするなど、この辺りの事情が判然としない。法名は機翁祖全大居士。
名は信勝と言われているが、真田氏の家臣・河原綱家宛の書状において「さ左馬助○幸(花押)」とあり、『長国寺殿御事跡稿』などで実名の相違に疑問が持たれている。