仁宗 (宋)
仁宗(じんそう、大中祥符3年4月14日(1010年5月30日) - 嘉祐8年3月29日(1063年4月30日))は、北宋の第4代皇帝(在位:乾興元年2月19日 - 嘉祐8年3月29日(1022年3月23日 - 1063年4月30日))。父は第3代皇帝の真宗。実母は真宗側室の李宸妃。真宗の皇后(章献明粛皇后)が嫡母となり、同じく側室の章恵太后のもとで養育された。
略歴[編集]
第3代皇帝・真宗の第6子で、1022年に父帝が崩御した際に遺詔により即位した。生まれつき仁孝寛裕で、喜怒を顔に表そうとしなかったという。
即位時はわずか13歳という幼少のため、章献明粛皇后劉氏が摂政となり、寇準と丁謂が補佐を務めて内政改革に着手した。1033年に劉太后が死去したため、仁宗自ら親政を開始する。その治世は前期・中期・後期の3期に分かれるが、前半期は范仲淹や韓琦といった名臣を登用したのをはじめ、この人事改革は中期にも続行されている。この時期に司馬光や王安石ら後年の人材も育っていくなど、北宋の政治や文化が成熟して慶暦の治と称される北宋や南宋の時代に理想とされた一時代が生まれた。仁宗はこれら有能な人材を抜擢していくことで集権的な文臣体制の整備、文治政治の推進、財政改革による経済体制の整備など、国力も上昇して北宋の全盛期を創出した。
しかし、前期から中期までは全盛期だった仁宗の親政も、後期になると国内で飢饉が頻発して農民一揆まで多発するようになる。対外政策では全盛期の国力を良いことに文治政治を極端に推し進めすぎた結果、軍事力が減退して対外政策に関しては経済的に解決する、いわゆる先代の澶淵の盟のように金を貢ぐことで解決するような姿勢に終始した。1038年に西夏が建国されると北宋の西北部はたびたび荒らされるようになり、それに付け込んで遼までもが侵攻して圧力をかけるようになる。1042年、仁宗は澶淵の盟の時に結ばれた歳幣額を銀・絹共に10万も増加させねばならなくなる。さらに西夏に対しても、毎年絹13万疋、銀5万両、茶3万斤を贈ること、李元昊を夏の国王として認める和約を締結している。
そして、このような治世後半の乱れから、仁宗は兵力を増加して軍備の増強に努めるが、これがかえって国費の増加を招くことになり、国家財政は一気に赤字財政に転落する。また、晩年の仁宗はこのような退潮の状態のためなのか、若い頃と違って優柔不断になって決断を臣下に任せることが増えだし、後年の官僚間における朋党の機運を生じた。このような中で1063年、北宋に退潮の色を残して54歳で崩御した。
仁宗には3名の男子がいたが全て早世したため、従兄の趙允譲の第13子である趙曙が英宗として跡を継いだ。
宗室[編集]
妻妾[編集]
- 皇后(浄妃)郭氏、温成皇后張氏、光献皇后曹氏、皇后(美人)張氏[1]
- 昭懿貴妃張氏[2]、昭節貴妃苗氏(仁宗の乳姉妹)、昭淑貴妃周氏
- 徳妃楊氏、充儀尚氏、貴妃董氏、賢妃馮氏、徳妃兪氏、充儀朱氏
- 美人余氏[3]、彭城県君劉氏[2]、安福県君張氏[4]、仁和県君李氏[5]、楊易行[6]、御侍景氏、御侍黄氏[7]
男子[編集]
- 趙昉(夭折) 母は徳妃兪氏。
- 趙昕(夭折) 母は昭節貴妃苗氏。
- 趙曦(夭折) 母は充儀朱氏。
女子[編集]
- 周国陳国大長公主(荘孝明懿帝姫) 李瑋に降嫁し、また生別した。母は昭節貴妃苗氏。
- 崇慶公主(荘和帝姫) 母は徳妃兪氏。
- 安寿公主(荘順帝姫) 母は温成皇后。
- 宝和公主(荘定帝姫) 母は温成皇后。
- 鄆国公主(荘禧帝姫) 1歳で夭折し、公主の位号を追贈された。母は馮賢妃。
- 商国公主(荘宣帝姫) 6日で夭折し、公主の位号を追贈された。母は楊徳妃。
- 魯国公主(荘夷帝姫)趙懿安 若くして尼僧となった。夭折し、公主の位号を追贈された。母は馮賢妃。
- 斉国公主(荘慎帝姫)趙幼悟 若くして尼僧となった。夭折。母は温成皇后。
- 鄭国大長公主(荘斉帝姫) 8歳で早世した。母は董貴妃。
- 秦国魯国大長公主(令徳景行帝姫)銭景臻(銭惟演の子の銭暄の子)に降嫁した。母は昭淑貴妃周氏。
- 魯国大長公主(賢懿恭穆帝姫) 曹詩(曹彬の子の曹琮の孫で、曹牷の子)に降嫁した。母は董貴妃、養母は昭懿貴妃。
- 燕国舒国大長公主(懿穆帝姫) 郭献卿に降嫁した。母は昭淑貴妃周氏。
- 豫国公主(荘儼帝姫)2カ月で夭折し、公主の位号を追贈された。母は董貴妃。
廷臣[編集]
在位中の宰相[編集]
在位中に活躍した将軍[編集]
登場作品[編集]
- テレビドラマ
- 孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜(2020年、演:ワン・カイ)