王渾 (玄沖)

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王 渾(おう こん、223年 - 297年[1][2])は、中国三国時代から西晋にかけての武将政治家。字は玄沖(げんちゅう)[1][2]。父は王昶。弟は王湛。子は王尚王済王澄王汶。孫は王卓王聿。妻は鍾琰鍾繇の曾孫)。

生涯[編集]

并州太原晋陽県(現在の山西省太原市南西部汾水東岸)の出身[1]。魏の司空だった王昶の子で、最初は曹爽に招聘されたものの、249年に曹爽が司馬懿によって処刑されると免職となった[1]。後に懐県令として復職し、越騎校尉となる[1]265年に魏が滅亡して西晋が成立すると武帝に仕え、279年からの征伐では安東将軍として呉の首都である建業を攻め、王濬と手柄を争った[1]。この軍功により鎮東大将軍に任命され、司徒侍中録尚書事と要職を歴任する[1]

八王の乱で西晋が乱れる中での297年に死去した。享年65。

三国志演義』では西晋の侍中として登場し、益州刺史の王濬による呉征伐の上奏に対して1年間様子を見るべきと武帝に進言して諌めるが、武帝の命令により呉征伐に参加することになる[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 小出『三国志武将事典』P269
  2. a b 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、28頁

参考文献[編集]