清岡純子

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清岡 純子 (きよおか すみこ、1921年6月22日 - 1991年10月17日)は、日本の写真家。レズビアン及びロリータのジャンルで知られる。「普通の子供の素の魅力を引き出すのがカメラマンの腕」というモットーで[注釈 1]他のカメラマンがよくやる撮影上の演出を好まなかった。

生涯[編集]

1921年、子爵・清岡長言[注釈 2]を父に、子爵家である唐橋家出身の峯子[注釈 3]を母に、京都府京都市に生まれる(五人兄弟姉妹の末っ子、三女)。

写真家として新日本新聞社、キネマ画報社、新歌舞伎座を渡り歩いた後、1965年東京に移りフリーとなる。

報道写真のほか、日本におけるレズビアン活動の先駆者として『女と女 レスビアンの世界』(浪速書房、1968年)、『レスビアンラブ入門 心に愛を唇に乳房を』(池田書店、1971年)を出版。「ビーナス'74展」(ポーランド・国際芸術写真協会、1974年)、「世界写真展」(ドイツ・シュテルン社、1972年)で写真賞を受賞。

1977年の『聖少女』を皮切りに『白薔薇園』、『プチ・トマト』シリーズなど少女ヌードを次々と発表し有名になった。特に、少女モデルの花咲まゆ(当時13歳)の写真集は大ヒットとなった。

1978年5月17日、「聖少女・清岡純子写真展」開催(主催:報知新聞社、後援:読売新聞社)。1979年4月20日、「野菊のような少女・清岡純子写真展」開催(主催:報知新聞社、後援:読売新聞社)1980年5月15日「犬と少女・清岡純子写真展」開催(主催:読売新聞西部本社、協賛:フジアート出版)。

しかし事件は起こるのだ。『プチ・トマト』第42号(1987年1月31日発行)に多数の猥褻なシーンが含まれているとして、警視庁保安一課は1月30日までに発行元のダイナミックセラーズをわいせつ図画販売容疑で家宅捜索し、編集関係者から事情聴取を始めた。警視庁は全国の県警に『プチ・トマト』の店頭からの回収を求める異例の指示を出した(読売新聞の報道による[3])。

『プチ・トマト』は第42号をもって廃刊[注釈 4]。これについて、ニューヨークの紀伊国屋書店に陳列されていた『プチ・トマト』第42号が米当局に睨まれたのがきっかけであるという都市伝説がある[注釈 5]。本書には12-13歳(FOCUS記者の見立て)の少女のパイパンもそのまま掲載されていたが、それが問題だったようだ。清岡純子は「少女たちの顔形だけではなく、その部分も少女美につながると思っている。そこも自然にレンズに入ってくるだけできわどいポーズを取らせたことはない。新聞社の主催でデパートで少女写真展を開いたこともあるし、モデルの母親たちからも信頼されていた。なぜ今回に限って」と不満を露にする[4]

作家としての顔も持つ。『日蓮女優』は日本の作家クラブ賞を受賞している。

1991年10月17日、死去。葬儀には花咲まゆをはじめとする“清岡ガールズ”たちも参列した。

その後[編集]

没後、彼女の功績をまとめた遺作集が数社から刊行されたが、1999年児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律が施行され[注釈 6]、これらの書籍は絶版となった。

2005年春、国立国会図書館蔵書の『清岡純子写真集 Best Selection!』が、閲覧不可となっていることが確認される。

余談[編集]

清岡ガールズの一人・相羽加世子(川端典子)が本名と思われるN・K名義で『夕やけニャンニャン』のオーディション企画「アイドルを探せ」に出場したことがある。当時東京都在住の18歳だった。

1985年11月1日(金)の放送だったという証言もあるが、この部分には疑問がある。「アイドルを探せ」は月曜から金曜まで5日間かけて行うオーディションで、金曜日に150点中100点以上を獲得した出場者はおニャン子クラブの一員になれる。相羽は100点に届かずおニャン子にはなれなかった(=つまり金曜日まで出た)という証言もあれば、「水曜日か木曜日に出なくなった、プチトマトに出たことが問題視されたに違いない」という証言もある。古いことにつきいまさら検証は無理であろう。会場から「プチトマト!」とやじられ、司会の吉田照美も困惑していた。「プチトマトでも、歌手になりたい」と字幕が表示されたという証言もあるが、これを信じれば少なくとも1回(=月曜日)は出たことになる。

1985年当時18歳だとすると1967年頃生まれたことになる。プチトマトでデビューしたのは(発売時)14歳前後。

主な作品[編集]

ロリータ作品を中心に述べる

  • ナツコとシルビア (双葉社) 1970年 NDL75084838
  • 聖少女 (フジアート出版)1977年10月 NDL77026872
  • 野菊のような少女 聖少女パート2 (フジアート出版)1979年4月
  • 犬と少女 聖少女パート3 (フジアート出版)1980年3月
  • ああ・少女 (清岡純子企画室)1980年5月
  • 御所人形(角川書店)1981年3月 NDL81021667
  • 舞・少女 聖少女パート4 (フジアート出版)1981年3月
  • 白薔薇園 PART-1 (大塚カラー出版)1981年4月
  • 白薔薔薇園 PART-2 (大塚カラー出版)1981年7月
  • 白薔薇園 PART-3 (大塚カラー出版)1981年10月
  • 清岡純子の少女写真術 舞う少女 (ダイナミックセラーズ)1981年10月
  • 櫛玉手箱(文化出版局)1981年12月 NDL82011114
  • 白薔薇園 PART-4 (大塚カラー出版)1982年1月
  • 清岡純子の少女写真館 少女の詩 (ダイナミックセラーズ)1982年1月
  • 舞う少女 清岡純子の少女写真術(ダイナミックセラーズ)1982年4月 NDL82047236
  • 白薔薇園 PART-5 (大塚カラー出版)1982年6月
  • 愛奴の滴り(日本文華社)1982年8月 NDL82055639
  • 潮風の少女 聖少女パート5(フジアート出版)1982年9月 NDL4828902910
  • リマの少女 聖少女パート6 (フジアート出版)1983年7月
  • いたずら天使 (辰巳出版)1983年7月
  • 私は「まゆ」13歳 (フジアート出版)1983年9月
  • 聖少女は今 (フジアート出版)1983年11月
  • プチ・フレッシュ (ダイナミックセラーズ)1986年9月
  • 天使のひみつ (辰巳出版)1988年11月
  • 潮風の少女(平成版) (フジアート出版)1991年10月 ※1982年の『潮風の少女』にはあった紙ケースがなくなっている。表紙の写真も異なるが中身は同じ。
  • 清岡純子写真集 (辰巳出版)1992年10月
  • 清岡純子作品集 (辰巳出版)1993年3月
  • 愛蔵版清岡純子写真集 (綜合図書)1998年11月
  • プチ・レディ (ダイナミックセラーズ)1983年7月 ※これまでに撮影した少女たちの未公開カットを集めたもの[5]
  • マイ・ラヴリィ(ダイナミックセラーズ)1985年9月 ※これまでに撮影した少女たちの未公開カットを集めたもの。『プチ・レディ』の第2弾[6]

プチトマト[編集]

ダイナミックセラーズより刊行の月刊誌。発行部数約2万部。定価1000円[3]

プチトマト1. ナージャ、タニア(1982年10月)
プチトマト2.直美、秀美(1982年11月25日) 
プチトマト3.テレサ、エヴァ(1982年12月25日)
プチトマト4.洋子、美紗、由香、夏子、裕美(1983年1月25日) 
プチトマト5.エリザベス、ローザ(1983年2月)
プチトマト6.かおる、乃美(1983年3月25日) 
プチトマト7.シンビィ、アン、クリス、シンディ、ローラ(1983年4月)
プチトマト8.恵美(若月万里)、園津季子、園覇奈子、上条律子(1983年5月) 
プチトマト9.チエコ、イライザ(1983年6月25日)
プチトマト10.真紀子、裕子、雅美(1983年7月25日)
プチトマト11.ケイリ、カールチャ(1983年8月25日)
プチトマト12.万里(美保)、雅美(1983年9月30日) 
プチトマト13.アンナ、カテリーナ、メアリー(1983年11月)
プチトマト14.薫(1983年12月30日)
プチトマト15.洋子(1984年1月25日)
プチトマト16.万里(美保)、雅美(1984年2月25日)
プチトマト17.花咲まゆ、ヘレン、サンドラ、リリアン(1984年3月25日)
プチトマト18.菊子、高桂子、園夕喜子(綾子) (1984年5月25日)
プチトマト19.乃美、リカ、ナージャ、テレサ、エヴァ(1984年6月)
プチトマト20.ちえこ、直美、クリスチーナ、サンドラ、ヘレン(1984年7月) 
プチトマト21.クリスチーナ、由利、他無記名2名(1984年9月10日) 
プチトマト22.相羽加世子、テレサ・マルガリータ (1984年10月)
プチトマト23.増田久美、ロリアント、無記名外国人1名(1984年11月25日) 
プチトマト24.典子(きよみ)(1984年12月25日)
プチトマト25.ミサコ、志乃(1985年1月25日)
プチトマト26.ミキ、マコ (1985年2月25日)
プチトマト27.浅沼由香里(1985年3月25日)
プチトマト28.明子(1985年4月25日)
プチトマト29.薫 (1985年5月25日)
プチトマト30.万里(美保)、雅美、クリスチーナ(1985年10月)
プチトマト31.相羽加世子、浅沼由香里(1985年12月25日)
プチトマト32.篠原きよみ、野々村なつこ(1986年3月31日) 
プチトマト33.ちぐさ、浅沼由香里(1986年4月30日)
プチトマト34.ちぐさ、きよみ、なつこ、由香里 (1986年5月)
プチトマト35.藤森美佐子(1986年6月)
プチトマト36.相羽加世子、杉本綾子(1986年7月)
プチトマト37.杉本綾子(1986年8月31日)
プチトマト38.相羽加世子、杉本綾子 (1986年9月)
プチトマト39.金森弓子(1986年10月30日)
プチトマト40.岡本理絵(1986年11月30日)
プチトマト41.増田久美 (1986年12月30日)
プチトマト42.篠原きよみ(1987年1月31日)
プチトマト43.沙土子、宮子(販売中止?)

別冊プチトマト[編集]

『別冊プチトマト 15歳クリスチーナ』クリスチーナ(1984年7月)
『別冊プチトマト1 少女と戦車』名川登紀子&74式中戦車(1985年1月)
『別冊プチトマト2』まゆ(1985年6月30日)
『別冊プチトマト3』綾子(1985年7月30日)

フレッシュプチトマト[編集]

ダイナミックセラーズより刊行の(ほぼ)月刊誌

フレッシュプチトマト1 由香里 (1988年8月)
フレッシュプチトマト2 加世子 (1988年8月)
フレッシュプチトマト3 まゆ (1988年9月)
フレッシュプチトマト4 理絵 (1988年9月)
フレッシュプチトマト5 美保、雅美 (1988年10月)
フレッシュプチトマト6 薫  (1988年10月26日)
フレッシュプチトマト7 弓子 (1988年11月30日)
フレッシュプチトマト8 綾子、加世子 (1988年11月)
フレッシュプチトマト9 加世子 (1988年12月30日)
フレッシュプチトマト10 綾子、加世子 (1988年12月)
フレッシュプチトマト11 弓子 (1989年1月30日)
フレッシュプチトマト12 理絵 (1989年1月30日)
フレッシュプチトマト13 綾子 (1989年2月28日)
フレッシュプチトマト14 由香里 (1989年2月28日)
フレッシュプチトマト15 美保 (1989年3月31日)
フレッシュプチトマト16 雅美 (1989年4月1日)
フレッシュプチトマト17 美佐子 (1989年5月1日)
フレッシュプチトマト18 理絵 (1989年5月)
フレッシュプチトマト19 クリスチーナ (1989年6月)
フレッシュプチトマト20 ひさこ (1989年7月)
フレッシュプチトマト21 ロリアント (1989年8月)
フレッシュプチトマト22 理絵 (1990年5月)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. モデルに美少女が少ないのはその為
  2. 貴族院議員・大正天皇侍従職などを歴任。清岡家は菅原道真の子孫。いわゆる五条庶流、五条為康の次男・長時を祖に持つ。家格は半家・新家、家業は書道[1]
  3. こちらも遡ると菅原家を祖とする同族である。高辻同祖、菅原定義の子・在良を祖とし、家格は半家・旧家、家業は儒道[2]
  4. 第43号の製本はされていた(存在は確認されている)
  5. 1986年4月には、『プチ・トマト』を販売したマンハッタンの日本書籍店が「あまりにもひどい幼児ポルノを販売した」としてNYPDに摘発されている[3]
  6. 彼女の生存中は施行されないように忖度があったという都市伝説も存在する

出典[編集]

  1. 維新史料編纂会 1929, p. 236.
  2. 維新史料編纂会 1929, p. 218.
  3. a b c 読売新聞 1987, p. 23.
  4. 「摘発された「少女ヌード」―10年間撮り続けた女流写真家・清岡純子さんの大反論」、『FOCUS』第7巻第6号、新潮社、1987年2月13日、 53頁。
  5. “KKダイナミックセラーズ広告”. 読売新聞: p. 1. (1983年8月13日 
  6. “KKダイナミックセラーズ広告”. 読売新聞: p. 7. (1985年7月24日 

参考文献[編集]

  • 『現代華族譜要』 維新史料編纂会、日本史籍協会、1929年doi:10.11501/1879484NDL68001366
  • “写真家・清岡純子さん撮影の少女ヌード誌を摘発”. 読売新聞: p. 23. (1987年1月31日