深作欣二

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深作 欣二(ふかさく きんじ、昭和5年(1930年7月3日 - 平成15年(2003年1月12日)は、映画監督である。1996年から日本映画監督協会理事長。

概要[編集]

水戸市郊外の茨城県東茨城郡緑岡村千波(現千波町)で1930年に生まれる。父深作雄太郎は東京帝国大学農学部卒で日露戦争に出征後、茨城県の農業技師を務めた小地主であった。退職後も地元からの依頼で緑岡村の村長をしていた。深作は兄弟五人の末っ子であった。13歳年上の兄を筆頭にして、3人の姉がいた。幼少時は内気であったが、緑岡小学校に通う頃から喧嘩の強い子になった。三年生から水戸市の師範附属小学校に往復二里の道を通い、体力がつく。水戸中学に進学する。勤労動員では日立精機の工場で零戦の機関銃を製作していた。工場はアメリカ軍の艦砲射撃を受け、工場は破壊され、20余人の工員が亡くなった。深作は亡くなった工員の死体の片付けをやらされた[1]。終戦時は水戸中学3年生であった。

終戦後から映画館に通いだした。旧制中学五年になっても受験勉強はせず、新制水戸一高の三年生に編入した。テニスと映画に明け暮れ、黒澤明の『わが青春に悔いなし』『酔いどれ天使』を見て、映画監督になろうと思った。受験勉強はせず、日本大学芸術学部映画科に入学した。映画の授業より外国映画『戦火のかなた』『無防備都市』などに影響を受けた。日本大学を卒業し東映の入社試験を受けた。当時市川歌右衛門と親しい土建屋の知人がいたため合格し、1953年(昭和28年)に東映へ入社[2]

入社後の1年間は事務を行い、その後は希望して東映東京撮影所の助監督になった。東京撮影所ではマキノ雅弘佐々木康関川秀雄などの助監督として修業する。深作の話では「東映の助監督はとにかく雲助だ。とにかく走れ、走れとくる」と語る。苦労の多いサードを8年間、セコンドを半年、ファーストを1年半務める。1961年、『風来坊探偵』シリーズで監督デビューする。1973年から公開された『仁義なき戦い』シリーズは大ヒットとなる。その後、東映は任侠路線実録路線に変更した。

平成15年(2003年)1月12日、前立腺癌のため死去した。72歳没。

親族[編集]

妻は女優の中原早苗。従兄弟の孫に政治家の深作ヘススがいる。

深作ヤクザ映画の特徴[編集]

深作は東映がやくざ映画一色の頃はあまりヤクザ映画を撮っていなかった。社会派の映画監督で名を挙げていたからである。戦後民主主義の精神的支柱は、個人の確立と権威への反抗であった。ヤクザの世界は親分の命令に絶対服従するしきたりで、深作の心情とは相いれない。そこで『解散式』では、組の命令を聞かないヤクザを登場させた。『軍旗はためく下に』では、反戦平和のテーマをまともに提示したが、戦争で亡くなったものへの負い目が、敵前逃亡などを暴露させていた。『仁義なき戦い』シリーズではロマンティシズムに根ざす従来のやくざ映画を否定し、激しいアクションや暴力表現に革命をもたらし、ヤクザ世界の不条理を提示した。親分や幹部連中をヒーローにせず小人間として描き、逆に小物が現場で生き生きと動き回る映画を志向した。映像表現ではアクションや暴力表現に革命をもたらした。他のやくざ映画と異なるところは、「カッコヨイ」やくざを撮らないことであった。対立する集団の人間関係を映像的に明示する力強い構図を作り、画面のブレを厭わずダイナミックな力感を表現した。

受賞[編集]

  • 1973年 第11回 ゴールデン・アロー賞 映画賞:深作欣二と菅原文太
  • 1982年 第25回ブルーリボン賞 監督賞 『蒲田行進曲』
  • 1982年 第56回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画監督賞 『蒲田行進曲』
  • 1983年 第6回 日本アカデミー賞(1983年)監督賞 蒲田行進曲 道頓堀川
  • 1987年 第10回 日本アカデミー賞(1987年)監督賞 火宅の人
  • 1994年 芸術選奨文部大臣賞
  • 1995年 第18回 日本アカデミー賞(1995年)監督賞 忠臣蔵外伝 四谷怪談
  • 1995年 第20回おおさか映画祭 監督賞 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』
  • 1997年 紫綬褒章
  • 2003年 勲四等旭日小綬章

作品リスト[編集]

No タイトル 製作 公開 上映時間 出演
1 風来坊探偵 赤い谷の惨劇 ニュー東映 1961年3月9日 62分 千葉真一
2 風来坊探偵 岬を渡る黒い風 ニュー東映 1961年6月23日 60分 千葉真一
3 ファンキーハットの快男児 ニュー東映 1961年8月5日 53分 千葉真一
4 ファンキーハットの快男児 二千万円の腕 ニュー東映 1961年9月13日 53分 千葉真一
5 白昼の無頼漢 ニュー東映 1961年11月1日 83分 丹波哲郎
6 誇り高き挑戦 東映 1962年3月28日 89分 鶴田浩二
7 ギャング対Gメン 東映 1962年11月2日 89分 鶴田浩二
8 ギャング同盟 東映 1962年11月2日 89分 内田良平
9 ジャコ萬と鉄 東映 1964年2月8日 100分 丹波哲郎
10 狼と豚と人間 東映 1964年8月26日 95分 三国連太郎
11 脅迫(おどし) 東映 1966年2月17日 84分 三国連太郎
12 カミカゼ野郎 真昼の決斗 東映 1966年6月4日 90分 千葉真一
13 北海の暴れ竜 東映 1966年10月25日 85分 梅宮辰夫
14 解散式 東映 1967年4月1日 93分 鶴田浩二
15 博徒解散式 東映 1968年2月9日 91分 鶴田浩二
16 黒蜥蜴 東映 1968年8月14日 87分 丸山明宏
17 恐喝こそわが人生 東映 1968年10月26日 90分 松方弘樹
18 ガンマー第3号 宇宙大作戦 東映 1968年12月19日 77分 ロバートホートン
19 黒薔薇の館 東映 1969年1月11日 91分 丸山明宏
20 日本暴力1団・組長 東映 1969年7月8日 71分 鶴田浩二
21 血染の代紋 東映 1970年1月31日 87分 菅原文太
22 君が若者なら 新星映画社 1970年5月27日 90分 石立鉄夫
23 トラ・トラ・トラ! 20世紀フォックス 1970年9月25日 150分 マーチン・バルサム
24 博徒外人部隊 東映 1971年1月12日 93分 鶴田浩二
25 軍旗はためく下に 東映 1972年3月16日 96分 丹波哲郎
26 現代やくざ 人斬り与太 東映 1972年5月6日 92分 菅原文太
27 人斬り与太 狂犬三兄弟 東映 1972年10月25日 86分 菅原文太
28 仁義なき戦い 東映 1973年1月13日 99分 菅原文太
29 仁義なき戦い 広島死闘篇 東映 1973年4月23日 100分 菅原文太
30 仁義なき戦い 代理戦争 東映 1973年9月29日 102分 菅原文太
31 仁義なき戦い 頂上作戦 東映 1974年1月15日 101分 菅原文太
32 仁義なき戦い 完結篇 東映 1974年6月29日 97分 菅原文太
33 新仁義なき戦い 東映 1974年12月28日 98分 菅原文太
34 仁義の墓場 東映 1975年2月15日 94分 渡哲也
34 仁義の墓場 東映 1975年2月15日 94分 渡哲也
35 県警対組織暴力 東映 1975年4月26日 98分 菅原文太
36 資金源強奪 東映 1975年6月21日 92分 菅原文太
37 暴走パニック 大激突 東映 1976年2月28日 85分 渡瀬恒彦
38 新仁義なき戦い 組長最後の日 東映 1976年4月24日 91分 菅原文太
39 やくざの墓場 くちなしの花 東映 1976年10月30日 96分 渡哲也
40 北陸代理戦争 東映 1977年2月26日 98分 松方弘樹
41 ドーベルマン刑事 東映 1977年7月2日 90分 千葉真一
42 柳生一族の陰謀 東映 1978年1月21日 130分 萬屋錦之介
43 宇宙からのメッセージ 東映 1978年4月29日 105分 ビック・モロー
44 赤穂城断絶 東映 1978年10月28日 160分 萬屋錦之介
45 復活の日 角川春樹事務所/TBS 1980年6月28日 156分 草刈正雄
46 青春の門 東映 1981年1月15日 140分 菅原文太
47 魔界転生 角川春樹事務所 / 東映 1981年6月6日 122分 千葉真一
48 道頓堀川 松竹 1982年6月12日 130分 松坂慶子
48 蒲田行進曲 松竹 1982年10月9日 109分 松坂慶子
49 人生劇場 東映 1983年1月29日 168分 三船敏郎

[編集]

  1. 「水戸市政だより」昭和54年1月1日号
  2. 深作欣二編(1974)『世界の映画作家 22』キネマ旬報社