熙宗 (金)
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熙宗(きそう、1119年 - 1149年)は、中国の金の第3代皇帝[1]。諱は合刺(ホラ)。あるいは亶(たん)(在位:1135年 - 1149年)[1]。
生涯[編集]
祖父は初代皇帝の太祖・完顔阿骨打で、父はその次男で嫡子であった完顔宗峻[1]。第2代皇帝であった叔父の太宗・完顔呉乞買が1135年に崩御した際、その後継をめぐって太祖と太宗の子孫が争い、合刺が太祖の嫡孫であるという理由から第3代皇帝に即位した[1]。しかし即位時で17歳の若さのため、実際の政務は伯父の完顔宗幹が担当する[1]。建国以来の最高政治機関である勃極烈制は廃止されて中国官制に切り替えられ、河南や陝西などが金の直接支配下に置かれ、金の皇帝独裁権の強化並びに中国化が推し進められた[1]。
1142年、南宋と和睦が結ばれ、銀に25万両、絹25万疋を南宋が金に歳貢するという条件が成立したが、これをいいことに熙宗は急に傲慢になった[1]。しかも次第に酒色に溺れ、過度の酒色が原因で精神障害を患い、近臣を殺戮するなどして人望を失った[1]。嫡子を相次いで失ったこともこれらの一因ではないかと見られている。
1149年、皇族で宰相かつ従兄弟である迪古乃に殺害され[1]、皇位は迪古乃に奪われた。享年31。迪古乃に買収された近臣に武器を奪われて斬りつけられた上で迪古乃にとどめを刺されたのだという。
宗室[編集]
妻妾[編集]
- 悼平皇后(裴満氏)
- 賢妃
- 完顏道済
- 徳妃烏古論氏
- 妃張氏
- 裴満氏
- 妃趙賽月 - 北宋で華福帝姫。宋徽宗の息女。
- 妃趙金姑 - 北宋で慶福帝姫。宋徽宗の息女。