森信成
森 信成(もり のぶしげ、1914年(大正3年)6月24日 - 1971年(昭和46年)7月25日)は、哲学者。大阪市立大学教授。大阪唯物論研究会(大阪唯研)、日本唯物論研究会(日本唯研)の指導的メンバー[1]。
来歴[編集]
大阪市福島区玉川町生まれ[2]。大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)を経て[1]、旧制高知高等学校卒業。1935年京都帝国大学法学部に入学。翌1936年文学部哲学科に転入。同年京大学友会代議員。入学後に終生の友人となる小野義彦と出会う。京大配属将校が天野貞祐教授の著書『道理の感覚』を「反軍的」と発言したことに永島孝雄、村上尚治らとともに抗議し、発言を撤回させるなど[2]、人民戦線期の学生運動で活躍した[3][2]。梯明秀宅で開かれていた「哲学研究会」に参加し、ロシアの社会思想やマルクス主義の文献を読み込む。卒業論文で指導教官の田辺元や西田哲学を批判したため2年留年し[2]、1941年に京大文学部哲学科を卒業した[3]。大阪市立第七商業学校教員となったが、1943年に春日庄次郎らの「日本共産主義者団批判的再建集団」関係で特高に検挙された。執行猶予の判決を受けて釈放され、商業学校を退職[2]、大阪商工会議所調査書記となった[3]。
1950年大阪市立大学講師、のち助教授、1966年教授。敗戦後、民主主義科学者協会(民科)大阪支部哲学部会に所属。主体性論争などの論争に参加する[2]。1950年に民科哲学部会の機関誌『理論』に「最近における唯物論の実存主義的修正」を発表。武谷三男、田中吉六、三浦つとむを『季刊理論』派と呼び[4]、マルクス=レーニン主義の原則を守る立場から実存主義的傾向を批判した[3]。1957年11月に山本晴義、小野義彦らと大阪唯物論研究会(大阪唯研)を結成。1959年6月に東京の大井正、下関の三井田一男、札幌の岩崎允胤らと各地唯研の連絡組織として日本唯物論研究会(日本唯研)を結成した[2][5]。戦後間もなく日本共産党に入党したが、第7回から第8回党大会における内部対立の中で1960年代初めに除名された[2]。1963年に大井らとソ連科学アカデミーの招待で訪ソ。毛沢東思想や日本共産党の哲学を批判し続ける[3]。
小野らとともに関西の学生唯物論研究会や、1963年に日共系の平民学連から分裂した民主主義学生同盟(民学同)に思想的影響を与えた。1970年に小野らと大阪唯研の機関誌『知識と労働』を創刊した[2]。1971年7月25日、胃癌のため57歳で死去[1]。没後に刊行された著書『唯物論哲学入門』は、2004年に『ナニワ金融道』で知られる漫画家の青木雄二が共同通信配信記事「心に残る一冊」で取り上げたことがきっかけで復刊された[6]。
著書[編集]
- 『史的唯物論の根本問題――戦後日本の思想対立』(青木書店、1958年/新泉社、1979年)
- 『マルクス主義と自由――フォイエルバッハに関するテーゼを中心として』(学術出版社、1962年)
- 増補版『マルクス主義と自由』(合同出版、1968年)
- 『毛沢東『矛盾論』『実践論』批判』(刀江書院、1965年)
- 『唯物論哲学入門』(新泉社、1972年、新装版1994年、改訂新版2004年、改訂新装版2019年)
- 『現代唯物論の基本課題』(新泉社、1973年、新装版1979年)
出典[編集]
- ↑ a b c 森信成『新装版 唯物論哲学入門』新泉社、1994年、著者略歴
- ↑ a b c d e f g h i 田畑稔「森信成」近代日本社会運動史人物大事典編集委員会編『近代日本社会運動史人物大事典 4』日外アソシエーツ、1997年、593-594頁
- ↑ a b c d e しまねきよし「森信成」朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、1412-1413頁
- ↑ 大和田寛「社会科学系戦後雑誌小論 : その書誌的考察(1)」『仙台大学紀要』40巻1号、2008年、21-22頁
- ↑ 山本晴義「解説」、森信成『新装版 唯物論哲学入門』新泉社、1994年
- ↑ 『改訂新版 唯物論哲学入門』新泉社刊(NR書評再録) NR出版会
参考文献[編集]
- 森 信成(モリ ノブシゲ)とは - コトバンク
- 佃實夫ほか編 『現代日本執筆者大事典 第4巻 (人名 ひ~わ)』 日外アソシエーツ、1978年
関連文献[編集]
- 吉田健二『凸凹道:「ソ連派」の青春――民学同を生きて』(ロゴス、2022年)