東郷浪人踊り

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東郷浪人踊り(とうごうろうにんおどり)とは、鳥取県東伯郡東郷町(現在の湯梨浜町)に伝わる無形民俗文化財である。

概要[編集]

この踊りは毎年7月19日7月20日東郷湖畔公園で開催される水郷祭で、7・7・7・5調の念仏風の歌詞に合わせて悲壮な想いを込めて踊られるものである。

その由来であるが、安土桃山時代にこの地域は羽衣石城主・南条氏によって支配されていた。南条氏はそれまで毛利輝元に属していたが、天正年間に入ると中央から織田信長の勢力が拡大し、信長の命令を受けた羽柴秀吉の軍勢が迫って来たため、毛利氏から織田氏に鞍替えしてしまう。このため、天正7年(1579年)7月に輝元の叔父・吉川元春の侵攻を受けて城を捨てて逃げざるを得なくなった。そして、この翌年のから、前年の元春の侵攻で死んだ将兵の供養を兼ねた盆踊りが、東郷湖畔で催されるようになったのが起源であると言われている。

信長没後、豊臣政権が成立すると、南条氏は羽衣石城主として復帰したが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで当時の当主・南条元忠西軍に属したことから、戦後に改易となって家中は四散することになった。慶長6年(1601年)夏、南条氏滅亡後も例年通り盆踊りは開催されたが、前年の改易により帰農していた浪人も増加しており、彼らの中には人目をはばかって夜陰に紛れながら盆踊りの列に加わっていた者もいたとされている。この年から、この盆踊りは23年前の供養だけではなく、改易された旧家と数多の亡くなった同胞らを供養するいわゆる手向けの踊りとなり、これは夜を徹して行なわれたという。こうして、最初は慰霊の踊りだったはずが、いつしか定型化されて現在まで連綿と伝えられているのである。

踊り手は菅笠をかぶって面を隠し、三ツ紋の黒装束に朱澤の落とし差し、若竹色の角帯には印籠を挟んだ浪人姿で、さす手ひく手も悲哀に満ち、過ぎし日への追想を込めながら踊るとされている。