東国太平記

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東国太平記(とうごくたいへいき)とは、関ヶ原の戦いにおける慶長出羽合戦を中心とした史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

成立年代は不明だが、江戸時代中期の延宝8年(1680年)10月の国枝清軒の序によると、上杉景勝の家臣・杉原親憲の親族である杉原親清が、酒井忠勝の命令によって記したものであり、それをたまたま入手した国枝が、自分の訂正を加えて世に出したのだという。となると、江戸時代前期に酒井忠勝の命令で成立したことになるが、ただ国枝がどれだけ訂正したり加筆したのかが明確ではない。

『東国太平記』の名前は国枝が名付けたという。恐らく東国の「関ヶ原」という意味で名付けたのではないかと思われる。別称は『東国実記大全』(とうごくじっきたいぜん)。

内容[編集]

全16巻。15巻までは上杉景勝に関係する軍記をはじめ、関ヶ原の頃の中央情勢などが書かれている。最終巻は杉原の覚書として1つ書き33条で構成されている。なお、慶長出羽合戦に関連する後代史料のため、石田三成直江兼続は愚劣な人物として描かれている。

まず、会津の太守だった蒲生氏郷を石田と直江の両者は暗殺し、その後に景勝が入るように仕組み、そして豊臣秀吉の死、徳川家康を倒すためにそれに対抗する人物として景勝を「利用」しようと石田と直江は画策。直江は軍備増強のため浪人を雇い、直江に乗せられた景勝は家康の上洛要請を拒否。こうして会津征伐が始まり、その途上で石田は家康を暗殺しようとしたが、家康には神仏の加護があったとして失敗する。ここまでが第3巻までである。

会津征伐の途上で石田三成の挙兵が知れ渡ると、家康は上方を目指す。ここまでが第6巻までである。

田辺城の戦い伊達政宗白石城奪取までが第7巻までである。なお、三成は細川幽斎を味方にしようと調略したとしている。

白石城奪取後、政宗は家康の命令で撤退。一方、景勝は白石城を奪われた失態から甘糟景継を疎むようになるまでが第9巻までである。

津川城の攻防戦、越後遺臣一揆堀直政により平定される。直江は上杉軍を率いて最上義光を攻め、上泉泰綱が活躍するまでが第11巻までである。

最上義光は子の最上家親[注 1]を政宗の下に派遣して援軍を要請する。最上氏との戦闘では常に直江の愚劣な指揮が描かれているが、この著では描かれておらず、長谷堂城上山城も直江の指揮で優勢だったと書かれている。しかし、関ヶ原本戦で西軍が敗北した報せが入る。ここまでが第12巻までである。

直江は米沢に撤退するため、翌日に撤退する旨を義光や政宗に通告し、18度の合戦のうち、11度勝利して堂々と撤退したとしている。政宗は福島城を攻めたが、上杉氏の勇将である本庄繁長の反撃を受けて敗退。他の上杉領も攻めたが、景勝自ら出陣するという噂が流れたため、政宗は撤退した。ここまでが第13巻までである。

その後、政宗は福島城を再三攻めたが、繁長の子・本庄満長岡野左内により敗北した。慶長6年(1601年)7月、家康は結城秀康の執り成しもあり、景勝を150万石から32万石[注 2]に減らした上で、会津から米沢に移した。ここまでが第15巻までである。

16巻は景勝時代の回想を覚書のように記している。ただ、上杉謙信時代のものも含まれ、特に川中島の戦いのものが多い。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 通説では要請に赴いたのは家親ではなく、その兄の最上義康とされている。
  2. 通説では会津120万石から米沢30万石。

出典[編集]

参考文献[編集]