孟知祥
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孟 知祥(もう ちしょう、874年 - 934年)は、五代十国の後蜀の初代皇帝(在位:930年 - 934年[1])。後蜀の建国者であることから高祖(こうそ)と呼ばれる[1]。字は保胤(ほういん)[1]。
生涯[編集]
邪州龍岡(河北)の出身[1]。父は孟道、叔父は孟遷といい、いずれも後唐の荘宗の配下であった[1]。その縁から孟知祥も荘宗配下の有力軍人として武功を立て、荘宗が前蜀を滅ぼすと成都尹、西川節度使に任命されて蜀の統治を任された[1]。
荘宗が横死し、後継者の明宗とは不仲で警戒されるようになる[1]。孟知祥は成都で兵力を養い自立する機会を伺い、対する明宗も荊南を動かして様々な妨害や謀略を行なった[1]。このため930年に孟知祥は明宗に対して反乱を起こして自立し[1]、ここに後蜀が事実上建国された。932年には蜀全土を制圧し[1]、それをもって933年に蜀王を称した[2]。さらに934年1月に皇帝に即位し、蜀周辺の節度使は後蜀に従属した[2]。
皇帝に即位してからしばらくして、高祖は崩御した[2]。享年61。跡を3男の後主が継いだ。