朱友珪
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朱 友珪(しゅ ゆうけい、888年 - 913年)は、五代十国の後梁の第2代皇帝(在位:912年6月3日 - 913年2月17日[1])。字は遥喜。
生涯[編集]
初代皇帝・太祖の次男[1]。母は亳州の営妓(娼婦)[1]。907年に郢王に封じられた[1]。
912年、病床についた太祖は養子の次仮王で博王・朱友文を汴州から洛陽に呼び出し、朱友珪を地方に左遷しようとした[1]。このため朱友珪は朱友文が後継者になることや身の危険を恐れて太祖を暗殺した[1]。さらにその罪を全て朱友文に着せて殺害し、自らが第2代皇帝として即位した[1]。
だが、この政変で禁軍の一部が朱友珪に対して反乱を起こした[1]。すると朱友珪の弟で均王である朱友貞が洛陽にいた侍衛親軍都指揮使の袁象先と結んで朱友珪を攻めた[1]。この攻撃で朱友珪は自殺に追い込まれた[1]。享年26。
死後、即位した朱友貞(末帝)により朱友珪は皇帝として認められず庶人とされた[1]。
宗室[編集]
后妃[編集]
子女[編集]
- 不詳