本山茂宗
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本山 茂宗(もとやま しげむね、? ‐ 弘治元年(1555年))は、戦国時代の土佐国の戦国大名。土佐七雄と称された本山氏当主で、同家の全盛期を築き上げた。
生涯[編集]
父は本山養明。父の死後、跡を継いで当主となる。晩年に出家したようで、号は梅慶(ばいけい)という。
『土佐物語』巻1では「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の郷民に金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、免して幕下になし、両郡悉く打ち靡け、猛威を振ふ事甚だし」、同巻4では「梅慶入道は、無双の精兵なり」とあるほど評価されている名君・名将であった。
大永7年(1527年)頃までに現在の高知市の市街地を横断して鏡川を越えて朝倉に進出し、居城の本山城を嫡子・茂辰に譲って自らは土佐郡朝倉城に移り、天文9年(1540年)に荒倉山を越えて吾川郡弘岡に進出し、当地の豪族であった吉良氏を滅ぼして勢力を拡大。天文13年(1544年)には高岡郡に進出して同地の豪族・津野氏を支援して土佐一条氏と戦うが、敗れて撤退した。そのため、一条氏の反撃を受けて高岡郡蓮池の大平氏は一条氏に降り、高岡郡東部から吾川郡南部までは一条氏に支配されることになった[1][2]。同年に土佐郡の森城主・森頼実らを滅ぼしている[3]。
また、嫡子の茂辰の妻に長宗我部国親の娘を迎えて、長宗我部氏とは一応は友好関係を保った[4]。
弘治元年(1555年)に死去し、跡を茂辰が継いだが[2]、名君の茂宗の死を見て長宗我部国親の攻撃が始まることになった。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]