木下俊定
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木下 俊定 きのした としさだ | |||||||||||||||||
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木下 俊定(きのした としさだ)は、安土桃山時代の大名。丹波国内で1万石の大名となった。小早川秀秋の兄である。
生涯[編集]
父は羽柴秀吉の義兄である木下家定で4男。母は不詳。小早川秀秋のすぐ上の兄であり、そのため生年は天正10年(1582年)の手前だと推定される。母親に関して、前半生については不詳で、秀吉に仕えて丹波国内で1万石を与えられて大名となっている[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して近江国大津城攻めに参加(大津城の戦い)。戦後は改易となり、すぐ下の弟の小早川秀秋を頼ってその一門として仕え、備前国内で5000石の知行を与えられている[1]。
慶長7年(1602年)10月15日に死去[1]。享年は不明だが、恐らく20歳代の若さだったと推定される。なお、弟の秀秋が死去するわずか3日前の死であるため、その死については暗殺など様々な説が唱えられているが、どれも確証は無い。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]