杉原家次

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杉原家次(すぎはら いえつぐ)は、戦国時代から織豊時代にかけての武将である。羽柴秀吉の家臣。秀吉の正室・寧々(高台院)の母・朝日殿の兄である。秀吉の伯父にあたる。秀吉の側近で信頼が厚く、京都所司代や大坂築城時の御金蔵御番役を務めた。

経歴[編集]

享禄3年(1530年)ころ尾張国で生まれる。七郎左衛門と称した。秀吉に一門衆として仕え、秀吉が長浜城主に立身出世したときその家老となる。播磨三木城攻め後の1580年に三木城主となる。高松城の水攻めでは、城主清水宗治切腹の検視をつとめた。中国大返しの際に、高松城の留守居となる。明智光秀が滅亡した後、丹波福知山城(京都府)の城主となる。長久手の戦いに出陣中の天正12年9月9日に陣没する。

鳥取城攻め[編集]

羽柴秀吉の三大城攻めは「高松の水攻め(備中高松城の戦い)」「三木の干殺し(播磨の三木合戦)」、「鳥取の飢え殺し」と言われる。兵糧攻めとは城への食糧輸送ルートを断ち、備蓄された食糧が尽きるまで包囲して相手の降伏を待つ方法である。第二次鳥取城攻めでは城内に1400人ほどの兵が籠城していたが、秀吉は包囲網内の村々の農民を城に追い込み、食糧輸送ルートを押さえた。城では1か月で兵糧が尽き、4か月後には餓死者が続出した。1581年(天正9年)10月25日吉川経家と旧山名氏家臣らは自決して降伏し、鳥取城は開城された。日本史上でも有名な兵糧攻めとなった。

武功夜話』巻八「羽柴秀長因州在番の事の条」に「杉原七郎左衛門、副田甚兵衛は算明るき者に候わば、六郡の在郷諸村に入会い、新穀の取入れを相見計らい商いに通じたる者を拵え、金銀を惜しみなく差し遣わし、五百石なるとも、千石成るとも賄い集め、たとえ一石たりとも城方へ渡す間敷き事。これは先々城方兵粮相続き間敷くは必定、城詰め肝要なるべき事。」と書かれ、収獲される新米を城方に渡さないようにすべて買い上げる様子が記載されている。

死去[編集]

多聞院日記』の天正11年11月20日記事「昨日京より寛俊下、御児御所之事、宜敷様聞く、珍重珍重」「坂本の城に居る杉原は筑州無並仁也。近日以之外に狂云々」と書かれている。杉原家次は、羽柴筑前守秀吉の並び無き人であるが、狂人のようになったとの伝聞記事が書かれている。それから約1年後の天正12年9月9日に亡くなっている。脳卒中などの病気の可能性が考えられる。

京都府福知山市の長安寺に家次の墓がある。法名は「心光院殿養室乗庵大居士」。