日下翠
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日下 翠(くさか みどり、1948年 - 2005年)は、中国文学者。九州大学大学院比較社会文化学府教授。専門は中国の戯曲・小説の研究、漫画の研究。
経歴[編集]
大阪府池田市生まれ。小学生の頃に手塚治虫の漫画『ぼくの孫悟空』に夢中になり、中国文学に憧れを抱く。中学・高校生の頃は『史記』『三国志』『水滸伝』『聊斎志異』が好きな本だった。中国語を学ぼうと入った神戸市外国語大学で『西遊記』の専門家である太田辰夫と出会い、中国文学の研究の道に入った[1]。1967年神戸市外国語大学外国語学部中国学科卒業[2]。1973年同大学大学院修士課程修了。1976年東京都立大学大学院博士課程単位取得[3]。関西大学、立命館大学、同志社大学等の講師を経て、1993年九州大学言語文化部助教授。1994年同大学大学院比較社会文化研究科(2000年に比較社会文化学府と改称)の発足に伴い国際社会文化専攻アジア社会講座に異動[2]。1996年「中国戯曲小説の研究」で博士(文学)(九州大学)。2000年九州大学大学院比較社会文化学府教授[2]。漫画の研究にも取り組み、2000年に刊行した『漫画学のススメ』は社会的にも大きな話題になった[2]。2001年に大学で「漫画学」の講義を始めた[4]。2005年に病気のため若くして亡くなった[2]。
エピソード[編集]
- 小谷野敦(『もてない男』の著者)から送られてきた手紙の封筒が使用済みの封筒を再利用したものだったため、「私の知人の女性大学教授」は「あれじゃもてなくて当然よね」と語っていたと呉智英は述べている[5]。小谷野によると、その女性大学教授とは日下翠である。小谷野はその女性大学教授とは誰なのか書いていなかったため呉に電話で聞き出した。小谷野は「呉によると、日下はマンガ学会に出てくるのだが、日下が発言すると皆が脇を向いたりして白けてしまうという。それで呉は日下に「日下さーん」と声をかける、というようなことを言っていて、女にやさしい人なんだなと思っていた。日下はその後死去した。」と述べている[6]。
- 竹内一郎は2005年に「ストーリーマンガの誕生 : 手塚治虫の表現技法に関する実証研究」で九州大学より博士(比較社会文化)を取得し、2006年に博士論文を基にした『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』(講談社選書メチエ、2006年)でサントリー学芸賞を受賞したが、漫画研究者から内容や選者の見識に関して多くの批判が寄せられた。漫画評論家の伊藤剛や漫画史研究者の宮本大人は竹内の指導教官であった日下に対しても批判を行っている[7][8][9][10]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『中国戯曲小説の研究』(研文出版、1995年)
- 『金瓶梅――天下第一の奇書』(中央公論社[中公新書]、1996年)
- 『漫画学のススメ』(白帝社、2000年)
- 『漫画学入門』(中国書店、2002年)※日下みどり名義。
共著[編集]
- 『初級漢語入門』(岩佐昌暲、荀春生、西山猛共著、中国書店、1997年)
- 『修学旅行のためのサポート中国語』(張暁衛、岩佐昌暲、西岡民子共著、同学社、1997年)※日下みどり名義。
- 『初級漢語入門2』(岩佐昌暲、荀春生、西山猛共著、中国書店、1997年)
- 『実力中国語』(岩佐昌暲、荀春生、西山猛共著、中国書店、2000年)
編著[編集]
- 『漫画研究への扉』(編著、梓書院、2005年)
出典[編集]
- ↑ 日下翠「自己紹介(PDF)」『九大教養部報』第115巻、1993年6月
- ↑ a b c d e 根井豊「弔辞 日下翠先生をしのぶ」『Crossover』No.19(PDF)九州大学大学院比較社会文化学府、2006年1月
- ↑ 『金瓶梅』著者紹介
- ↑ 「人このごろ:白紙なら自分でやるしかない:九大で「漫画学」を講義する日下翠さん」『朝日新聞』2002年6月25日付
- ↑ 呉智英『マンガ狂につける薬 下学上達篇』メディアファクトリー、2007年、60頁
- ↑ 呉智英と私(4) jun-jun1965の日記、2020年12月2日
- ↑ サントリー学芸賞事件+九州大学論文博士審査にまつわる疑惑 伊藤剛のトカトントニズム、2006年11月13日
- ↑ 竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』論文博士号問題について 伊藤剛のトカトントニズム、2006年11月21日
- ↑ 竹内一郎サントリー学芸賞受賞問題の〈起源〉 宮本大人のミヤモメモ(続)、2006年11月21日
- ↑ 竹内一郎サントリー学芸賞受賞問題の〈起源〉・承前 宮本大人のミヤモメモ(続)、2006年11月24日