新井君美
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新井君美(あらいきみよし)は、江戸時代の旗本、儒学者である。「白石」の号を用いたことから、新井白石の名で一般的には知られている。
生涯[編集]
1657年、久留里藩の藩士の家に生まれる。先祖は、新井村(現在の太田市新井町、太田駅南側)の土豪であったと言われている。1677年に久留里藩を追われた後、浪人を繰り返す中で儒学を学び続け、その後木下順庵に弟子入り、朱子学を学ぶ[1]。
1693年に、木下順庵の推挙で、当時の甲府藩主で将軍の甥であった徳川綱豊の家臣となる。綱豊は1709年に将軍徳川家宣となり、この時新井君美は幕臣となった。その後、側用人の間部詮房の支援の下、将軍の侍講(顧問・ブレーン)として、正徳の治と呼ばれる改革を行った。前将軍、徳川綱吉の政治を一新し、生類憐みの令の廃止、荻原重秀を初期に勘定方に残すも彼の方針に反した正徳金銀の発行によるインフレ抑制(=デフレ政策)、朝鮮通信使関連の費用削減といった改革を推し進めた。
家宣が今際の際に希望した尾張吉通後継または後見を応仁の乱を先例とした後代の争いの素として蹴り、7代将軍家継期も後見として実権を握っていた。
しかし家継夭折後、1716年に徳川吉宗が紀州家から将軍に迎えられると失脚し、打ち立てた政策の多くが吉宗により廃止となって、学問・著作中心の生活に戻った。1725年に死去。