揖斐藩
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揖斐藩(いびはん)とは、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪に存在した藩である[1]。藩庁は揖斐城[1]。藩主家は西尾氏。慶長5年(1600年)から元和9年(1623年)まで存在した。
歴史[編集]
藩祖の西尾光教は斎藤道三、織田信長に仕え、織田政権下で美濃国美濃曽根に2万石を領していた[2]。信長没後は豊臣政権に属し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。この際、西軍の大谷吉継から平塚為広を使者にして誘いを受けていたが、為広は吉継・為広を騙して関東に下向し、吉継や為広は激怒して西尾領を焼き払った[2]。関ヶ原合戦では美濃の地理に詳しいことから先鋒に任命され、岐阜城の戦いや曽根城、大垣城の戦いで功績を立てたので、戦後に徳川家康から1万石を加増され、ここに美濃本巣郡・加茂郡・安八郡・大野郡の内に3万石を領する揖斐藩が立藩した[1]。光教は元和元年(1615年)の大坂夏の陣では徳川氏に属して戦功を立てたが、戦後の11月19日に死去した[1]。
光教には跡継ぎの男子が無かったため、外孫にあたる西尾嘉教が跡を継いだが、この際に所領は光教の養子である西尾氏教に5000石を分与して旗本になったため、嘉教は2万5000石を継承した[1]。嘉教は織田信長から与えられていた「唐絵茄子」の掛軸を家康に献上して家の存続を図ったが、元和9年(1623年)4月2日に死去する[1]。嘉教には嗣子が無く、西尾家は無嗣断絶で改易となり、揖斐藩は廃藩となった[1]。
歴代藩主[編集]
西尾家[編集]
3万石 → 2万5000石。外様。