懐帝 (西晋)

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懐帝(かいてい、太康5年(284年) - 永嘉7年2月1日313年3月14日))は、西晋の第3代皇帝(在位:307年1月11日 - 311年7月13日)。姓名は司馬 熾(しば し)。

生涯[編集]

父は初代皇帝・武帝(司馬炎)で25男。290年に予章郡王に封じられた。また、同年に父の武帝が崩御し、異母兄の恵帝即位し、恵帝の暗愚から皇族や重臣による八王の乱が勃発するが、当初は少年だったことから乱に関与はしなかった。

20歳になった頃から八王の乱に関与しだした。ただし、張方や東海王の司馬越に操られる皇族の1人に過ぎなかった。306年に八王の乱を勝ち抜いた司馬越により乱が平定され、直後に恵帝も食中毒が原因で崩御した。恵帝の唯一の息子であった司馬遹は乱の最中に殺されており、その後は実力者によって様々な皇太子、皇太弟が擁立されていたが、この当時は張方に擁立されていた司馬熾が皇太弟であり、彼が司馬越に擁される形で307年に即位し、懐帝となった。

しかし、15年に及んだ八王の乱で多くの皇族や重臣を失った西晋は既に大いに衰退し、中国各地では異民族が侵入を繰り返して中国北部には劉淵が建国した漢(後の前趙)、西南部には李雄が建国した成漢が割拠して西晋と敵対。内地では飢饉が相次ぎ、石勒王弥らが反乱を繰り返すなど、最早西晋の威令は地に堕ちていた。にも関わらず、司馬越に補佐された懐帝は次第に彼と対立して実権を奪い返そうと画策したりしてまたも新たな内紛を引き起こした。司馬越は報復として懐帝の親族や側近を誅殺したりしたが、これにより両者の対立は決定的になる。また、この対立を見て漢の劉淵の子・劉聡らが洛陽に攻撃をかけたが、これらは司馬越により撃退された。

しかし、最早懐帝と司馬越の対立は修復不可能な所まで陥り、311年に懐帝は司馬越討滅の密詔を各地の諸侯に向けて発した。これを受けて司馬越は洛陽を離れて項城に駐屯したが、間もなく病死してしまう。司馬越が死去したことにより懐帝を補佐する重臣は完全に皆無となり、司馬越の軍勢10万という西晋の主力部隊は王衍が後を継いで率いていたが、この軍勢も漢の石勒に襲撃されて苦県寧平城において壊滅となり、王衍をはじめとした多くの将兵を失うに至った(苦県の戦い)。こうして西晋は主力軍を失って抵抗力を喪失し、劉聡はこの好機を見逃さずに石勒・劉曜・王弥・呼延晏らに洛陽を攻めさせた。懐帝は残された西晋軍をかき集めて抵抗するも、前軍大将軍の呼延晏が率いる漢軍相手に洛陽郊外で12回戦って全て敗戦し、3万人余の戦死者を出すほどであった。

懐帝は最早洛陽は守りきれないと見て、船で長安に脱出しようとしたが、呼延晏が事前に船を全て焼き払っていたので逃げることもできず、漢軍に捕縛された。こうして洛陽は陥落し、懐帝は廃帝同様の身となって漢の首都である平陽に連行された。西晋皇族はこの洛陽陥落の際に一部を除いて皆殺しとされ、事実上滅亡したも同然となった。

懐帝は平陽で劉聡から会稽公に封じられた。しかし、劉聡は懐帝を見せしめにするため、313年1月に光極殿で新年の宴会を開催した際、懐帝に青衣(当時の雑役のボーイの制服)を着させて、酒壺を捧げさせて酒を注いで回らせた。その懐帝の姿を見て、西晋の遺臣である庾珉王儁らが号泣したので、劉聡は非常に不愉快に思いだした。また、この頃になると華北に残存していた西晋の残党の動きが活発化して一部は漢を脅かすようになっており、懐帝やその遺臣を生かしておくと後顧の憂いになる可能性も浮上しだした。そこで、劉聡は間もなく、謀反の罪により懐帝と庾珉・王儁ら遺臣合わせて10人余りを処刑した。享年30。

後継者には長安に逃れていた懐帝の甥・司馬鄴が愍帝として西晋の残党に擁立される形で即位した。

宗室[編集]

妻妾[編集]

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  • 不詳