恵最

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恵最(えさい、天文11年12月26日1543年2月10日) - ?)は、戦国時代僧侶徳川家康の兄弟とされる人物である。正式名は樵暗恵最(しょうあんえさい)。

生涯[編集]

家康の異母兄弟とされる人物である。父は松平広忠で、その落胤と記録ではある。記録の初出は江戸時代中期の宝永4年(1707年)に刊行された三河国の最初の地誌といわれる『三河雀』である。そしてこの説を肯定して旧『岡崎市史』別巻上で「広忠は、はじめ大給の松平左近乗正の母の女(於久の方。妙琳)を籠して男子を挙ぐ(中略)。その後、家康の誕生と同日に再び男子生まる。僧となる。はじめ穎新(えいしん)、のち樵暗恵最と云う。桑名村広忠寺の開山である」とある。Wikipediaではなぜか生没年不詳にされているが、生年ははっきりしていると言ってよい。なお、家康と双子などとWikipediaでは書かれているが、そのような記録は見当たらないので全くの出鱈目で、『岡崎市史』を見る限りは松平忠政と同母の兄弟だったと見ることができる。

寛政重修諸家譜』巻第42では「(中略)その後、忠政の母また男子を生みしに、東照宮(家康)の御誕生と日を同じうしければ、広忠卿おぼしめす旨ありて僧となされ、穎新と名付けられる」とある。さらに同書では、今川義元桶狭間の戦い織田信長に討たれて家康が独立し、永禄5年(1562年)3月に家康が出陣中に桑谷村において忠政、穎新、そしてその母・妙琳に会って、この地に一宇を建てて寺の名前を父の広忠からとって瑞雲山広忠寺と号して、穎新を住持として、さらに名前を樵暗恵最と改名したという。

その後の行方は不明である。

ただ、恵最の存在は疑問視されている。『寛政重修諸家譜』では実を言うと恵最の存在を詳しく記録していながら、他の江戸幕府編纂の系図や記録に全く見当たらないことから、広忠の子あるいは落胤であることを全く否定している。『新編岡崎市史』では母とされる妙琳の年齢が広忠の年齢と釣り合わないのではと疑問視している。