恵帝 (西晋)

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恵帝(けいてい、甘露4年1月4日259年2月13日) - 光熙元年11月18日307年1月8日))は、西晋の第2代皇帝(在位:永熙元年4月20日 - 光熙元年11月18日290年5月16日 - 307年1月8日))。

生涯[編集]

初代皇帝・武帝の次男。姓名は司馬 衷(しば ちゅう)。次男であったが、長兄の司馬軌早世したことから長男扱いとなり、世子に選ばれた。

この司馬衷は生来から非常に暗愚で、それを見た祖父の司馬昭が司馬炎に対して、世子を代えるように命じたという逸話すら残っている。ただし、司馬昭が死去した時の司馬衷の年齢は数えで7歳で、司馬炎が司馬衷を皇太子に指名したのは司馬昭が死去した2年後の267年なので、恐らく司馬衷が暗愚であることを強調するために作られた逸話ではないかと思われる。

ただ、その後にも司馬衷が暗愚であるという逸話は数多くある。重臣の多くがこの皇太子の資質を疑問視して諌めたのは勿論の事、重臣の衛瓘は皇帝の座をさすりながら「この座が勿体ない」と武帝に遠まわしに廃太子を勧めたと言われている。武帝自身もこの皇太子の資質を疑問視し、1度は真剣に廃太子を検討した。周囲は武帝の同母弟で優秀で人望も厚かった斉王の司馬攸を皇太弟に立てることを望んだ。そこで、皇太子に政務を決裁させて様子を見ようとした。この時に知恵を回したのが皇太子の妃である賈南風であり、彼女は他人に決裁させてそれを皇太子がやったように見せかけた。ただし、余りに決裁の出来が良すぎると武帝に見抜かれる恐れもあったので、ある程度は失敗も仕込んだという。この試験を乗り切ったため、武帝は一応、廃太子を見送った。また、皇太子の長男である司馬遹が非常に優秀で、武帝はこの孫を非常に気に入っていたことから、孫に将来の望みを託して廃太子を見送ったとする説もある。

290年、武帝は死の床につき、崩御する前に汝南王の司馬亮、重臣で外戚の楊駿に皇太子の補佐を託そうとした。しかし、楊駿の策略でその遺命が司馬亮に届けられないうちに武帝は崩御し、皇太子が恵帝として即位した。

暗愚だった恵帝は自らが政務を行なおうとはしなかったしできなかった。また、皇帝になった際に重臣が国は凶作なので穀物が少なく、貧乏人は食事すら満足に食べられないと語ると、「それならば貧乏人は肉を食え」とまで言ったという逸話で知られるほどである。このため、暗愚な恵帝の下で政治の実権をめぐって流血の醜い内紛、いわゆる八王の乱が発生し、恵帝はその中で何ら主導権を発揮することはできず、成すがままに操られるだけであった。この八王の乱の際には、一時的に趙王の司馬倫に皇位を追われて太上皇に祭り上げられてしまっているほどである。また、息子の司馬遹をはじめ、多くの妻子をこの内紛で殺されている。

最終的に八王の乱は、この争いを勝ち抜いた東海王の司馬越によって平定された。恵帝は司馬越によって洛陽に帰還したが、帰還して半年もたたない306年11月に崩御した。死因は食中毒と言われるが、司馬越による毒殺説も疑われている。

子の司馬遹が殺されて恵帝に継嗣が無かったため、異母弟の予章王・司馬熾が懐帝として跡を継いだ。享年48。

人物像[編集]

恵帝は暗愚だというのが一般的である。それを物語る逸話も数多く存在しているが、恵帝の死後にかつて皇后だった羊献容が前趙の第5代皇帝・劉曜の皇后になった際にこのように語っている。

羊献容が劉曜の皇后になった際、劉曜は彼女に「わしと司馬家の息子(恵帝)とを比べるとどうだ?」と尋ね、それに対して彼女は「どうして比べものになるでしょうか。貴方は開基の聖主。あちらは亡国の暗主です。あの時、私は生きることを考えていませんでした。でも、生きて良かったと思います。生きていたからこそ、この天下にも、本当の丈夫がいたことを知ったのですから」と返答したという。

系譜[編集]

后妃[編集]

子女[編集]

謝玖との子
賈南風との子女