司馬倫
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司馬 倫(しば りん、? - 301年)は、中国の三国時代の魏から西晋にかけての武将・政治家。西晋の皇族で趙王として八王の乱に関与し、一時的に皇帝に即位した(ただし、皇帝即位に関しては歴代皇帝としては認められていない)。字は子彝(しい)[1]。司馬懿の第9子[1]。兄に司馬師・司馬昭ら。甥に武帝ら。子に司馬荂ら。
生涯[編集]
母は柏夫人。司馬懿の晩年に生まれた息子で、甥の司馬炎が武帝として西晋を建国すると琅邪王、後に趙王に封じられる[1]。司馬倫自身は父や兄らに及ぶような器の持ち主ではなく、むしろ暗愚で腹心の孫秀に操られていた傀儡だったという。八王の乱で賈南風が権力を握るとそれに媚びへつらって自らも栄達を得た。ところが賈南風が自らの実子ではない司馬遹を皇太子位から廃すると、司馬倫は賈南風の前途を見限って離反しようとしたが、腹心の孫秀が賈南風に司馬遹を排除させてから離反するのが良いと勧められたため、ひとまず行動はしなかった。
300年、賈南風が司馬遹を殺害すると、司馬倫は司馬冏と組んで賈南風に対するクーデターを起こし、賈南風とその一族を皆殺しにした[1]。そして301年には恵帝から皇位を奪って自ら皇帝に即位した[1]。しかし専横の振る舞いがひどく、簒奪したことは他の皇族からの反発を招き、組んでいたはずの司馬冏は司馬乂・司馬穎・司馬顒らと共に反乱を起こし、司馬倫は殺されて恵帝は復位した[1]。