里見弴
里見 弴(さとみとん、1888年ー1983年)は、日本の文豪。本名・山内英夫(やまのうちひでお)。有島武郎の次弟。
人物[編集]
薩摩藩の支藩に仕えた武家の出身で実業家の父・有島武の四男として東京の番町に生まれる。
十歳上の長兄は有島武郎、次兄は画家の有島生馬。生誕とともに祖母の家の山内家を継いで山内英夫となった。
学習院高等科から東京帝国大学文学部英文科へ進む(中退)。五歳年上の志賀直哉と精神的同性愛関係にあり、その「稚児」のようであった。大学時代に志賀、武者小路実篤、武郎らが創刊した『白樺』に参加する。志賀とともに吉原に遊んだり、松江・伯耆大山に行ったりしたが、ついに志賀との腐れ縁を苦しく感じ、大阪へ出奔、そこで知り合った芸者と結婚する。この志賀との関係は「君と私と」などに描かれたが、志賀がそれを不快に思ったことは「モデルの不服」や、『暗夜行路』冒頭の部分に反映している。
なお、父が作家になることを認めないだろうと思い、里見弴と筆名をつけた。
1923年には、長兄武郎の心中事件、関東大震災と引き続き、さらに妻が不貞を犯すという事件があり、里見はこれを『安城家の兄弟』という長編私小説に結実させた。戦後になって映画『安城家の舞踏会』というのが作られるが、これは安城家という名前を借りているだけで直接の関係はない。だが里見自身は、英龍という芸者と馴染み、妾宅を構えていた。そのため里見の代表作とされた『多情仏心』は、複数の女と関係するがそれがすべて真実だという弁護士・藤代信之の物語である。だが戦後、これが新潮文庫に入った際、まだ里見の存命中なのに解説を書いた本多秋五はこれを厳しく批判し、里見もこれを受忍していた。
戦時下の里見は、戦争協力をしなかったため、西園寺公望の秘書だった原田熊雄が速記で書いていた手記を、近衛泰子との協力で筆写する仕事に従事した。だがこれは戦争の裏面を描いた資料であるため軍部に発見されると大変なので、秘密の仕事となった。のち東京裁判で検察側の資料となったものである。
94歳の長命を保った里見は、戦後も鎌倉文士の長老として立原正秋などの尊敬を受けつつ、文芸雑誌、中間小説誌などに多くの中短編小説を書いたが、その中には単行本に収められていないものもある。また小津安二郎に依頼されて映画の原作を「秋日和」「彼岸花」の二点書いている。これは四男が松竹のプロデューサー山内静夫 (映画プロデューサー)だったせいもある。文化勲章受章。
戦後の作品には、絶賛された『極楽とんぼ』などがある。ほかに大正期の長編として『今年竹』『菊畑』がある。