有島武郎

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有島武郎(ありしま たけお、1878年3月4日ー1923年6月)は、作家・劇作家。

人物[編集]

薩摩藩の支藩の家臣だった有島武の長男として東京に生まれる。次弟に画家・作家の有島生馬、三弟に里見弴
学習院中等科から札幌農学校に転じ、キリスト教に入信し、内村鑑三に師事。渡米して文学を学び、エマソンホイットマンなどに影響を受ける。ヨーロッパをへて帰国後、札幌農学校の後身であった東北帝国大学農学部(札幌)講師となる。
1910年『白樺』の創刊に志賀直哉武者小路実篤らと参加し、「或る女のグリンプス」の連載を始める。これは国木田独歩の妻だった佐々城信子をモデルとしたもので、のち『或る女』として刊行される。独歩と別れたあとの信子(作中では皐月葉子)が船でシアトルへ向かうが、船の妻子ある事務長と恋愛関係になり、シアトルにいた婚約者を捨てて帰国し、ついに死ぬまでを描いている。実際の信子の婚約者だった原広が武郎の友人だった関係だが、実際には信子は生きていたため武郎に抗議しようと思ったという。

神尾安子と結婚し、三人の男児を儲ける。長男は俳優の森雅之。しかし妻は早く死んでしまい、武郎は「小さき者へ」を書く。武郎の著作は単行本としては出ず、友人の経営する出版社から『有島武郎著作集』として刊行され、ベストセラーだった。「生まれ出ずる悩み」「カインの末裔」などキリスト教や人道主義に根ざしたものが多く、大正時代にはそういうものが受けた。父の死後、受け継いだ北海道の広大な農地を、トルストイに倣って小作人に分け与えた。

だが寡夫となってからの武郎には人妻を含め女性ファンが多く、その一人で『婦人公論』の記者だった波多野秋子と有島は恋仲になってしまい、秋子の夫の波多野春房から、カネで解決するか牢獄へ入るかと追い詰められる(当時は姦通罪があった)。大正12年6月に、武郎と秋子は軽井沢で心中をとげ、一ヶ月後に発見された。波多野は烏峰の号をもつイスラム文化研究者であった。

評論に「惜しみなく愛は奪う」、戯曲に「ドモ又の死」などがある。

伝記[編集]