小嶺忠敏
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選手情報 | |
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生年月日 | 1945年6月24日 |
出身地 | 長崎県南高来郡 |
没年月日 | 2022年1月7日(満76歳没) |
身長 | 172cm[1] cm |
小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - 2022年1月7日)は、日本の元高校教員、サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。一般社団法人長崎県サッカー協会会長、長崎総合科学大学特任教授。
来歴[編集]
長崎県出身。既婚者。7人きょうだいの末っ子として生まれ、母子家庭で育つ。農家だったことから経済的にあまり余裕がなく、米を食べられるのは1年に10回ほどだったが、このハングリー精神こそが小嶺の今がある資本と後に述べている。家庭的経済的な事情から、上の6人のきょうだいが東京・大阪などで商売を始め、それで捻出した費用で長崎・島原商業高校に進学して本格的なサッカーを開始。大阪商業大学を経て昭和43年(1968年)に母校の高校に教師として赴任した。部員13人のサッカー部の指導者となり、すぐ自動車運転免許を取得すると、寝る間を惜しんでマイクロバスを自ら運転して全国各地を遠征し、地方校のハンディを自ら補った。指導者であるにも関わらず、選手と一緒に寮で寝泊まりし、朝練習は1度も遅刻することがなかったという。
昭和59年(1984年)に赴任した国見高校で3年後の全国選手権を初制覇。選手には猛練習を課す一方で、それぞれの選手の個性を伸ばす指導で大久保嘉人ら多くの選手をプロに輩出している。全国高校サッカー選手権で国見高校を戦後タイの6度優勝に導いた名将として有名になる。技術、礼儀、身だしなみなど人間教育を重視した教育方法で知られた。
令和4年(2022年)1月7日午前4時24分、肝不全のため、長崎市内の病院で死去した。76歳没。
著書 [編集]
- 『国見発 サッカーで「人」を育てる』 日本放送出版協会〈生活人新書〉、2004年8月10日。ISBN 978-4140881156。
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- プロフィール
- 「横行する国見批判」 :小嶺のサッカー指導法批判についての検証コラム。