小島政章
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小島 政章(おじま まさあき、? ‐ 天正19年(1591年)6月)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土佐一条氏、後に長宗我部氏の家臣。土佐国幡多郡小島城主[1][2]。
略歴[編集]
はじめ一条兼定に仕え、永禄12年(1569年)に兼定の命令で和井城主の和井舎人祐を攻め、城を落として占領して自らの居城にした。天正2年(1574年)、主君の兼定が不行跡のために豊後国の大友宗麟の下に追放されると、追放に加担した家老らの行為に激怒して為松若狭守、安並和泉守らの居城を攻略する。この一条家の一連の混乱を見た長宗我部元親が西進してくると、いち早く元親の軍門に降ってさらに一条家に味方する伊与田城や奈良城、竹葉城、安宗城など各地の城を攻め落として元親の幡多郡平定において大きな軍功を挙げたため、所領を与えられた[2]。
天正15年(1587年)、家督を子の政俱に譲って隠居し、それから4年後に没した。法名は清覚院殿[2]。