平将門の首塚
平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)は東京都千代田区大手町にある、平将門の首を祀る塚である。「将門塚」(まさかどづか)ともいう。
概要[編集]
平将門の乱の後、将門は自らを"新しい天皇”を意味する「新皇」と称した。朝敵とみなされた将門は平貞盛の軍と交戦し、下総の地で討死した。その首は藤原秀郷により平安京の七条河原にさらされた。
心霊現象[編集]
平安京にさらされた平将門の首は、数ヶ月も目を開いたり閉じたりを繰り返し、ときに「首を繋げて再戦したい」と叫ぶなどしたという。平将門の首は怨念により故郷の東国に向かって飛び、その途中の複数の土地に落ちた、伝説がある。その首が落ちた場所の一つが、「将門の首塚」である。
江戸時代になると首塚は荒廃し、平将門の亡霊は江戸の民を祟ったという。祟りを恐れた江戸の民は、また改めて手厚く平将門を供養した。
祟りの事例[編集]
神田明神への合祀[編集]
1302年から1305年(嘉元年間)頃から疫病が流行したり天変地異があるなど村民たちを悩ませた。村民は平将門の祟りと噂する。そこで1307年(徳治2年)、平将門を葬った墳墓「将門の首塚」で時宗の僧・真教上人が将門の霊を供養したところ、将門公の霊が鎮魂され、疫病が沈静化した。その後、1309年に神田明神に平将門を合祀したという。神田明神創建の地は「将門の首塚」付近にあったという[1]。
伊達騒動[編集]
江戸時代前半には平将門の首塚の付近は大老姫路藩雅楽頭酒井家の上屋敷となっていたが、1671年(寛文11年)仙台藩の原田宗輔による刃傷沙汰が発生した。原田甲斐が伊達安芸を殺害し、原田甲斐ら仙台藩関係者が酒井藩士に殺害された場所が首塚のある場所である。
大蔵省への祟り[編集]
明治時代の大蔵省は千代田区大手町にあり、敷地内に平将門の首塚があった。戦前に旧大蔵省の仮庁舎を建設しようとした時。首塚を更地にし仮庁舎を建設する工事を始めたところ、当時、第一次若槻礼次郎内閣の大蔵大臣(早速整爾)が急死し、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉が亡くなり、大蔵省官僚や工事関係者が十数人も亡くなったという。「大臣が亡くなり、工事関係者が不幸な目にあうのは、首塚を荒らしたからに違いない」との噂が広がった。大蔵省は省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊し、1927年(昭和2年)に鎮魂碑鎮魂碑を立てた。
神田明神左遷事件[編集]
1874年(明治7年)に明治天皇が神田明神に行幸する際、天皇が参拝する神社に逆臣の将門が祀られているのはあるまじきこととして将門は祭神から外され、代わりに少彦名命(恵比寿神)が祀られ、将門は境内摂社へ移されたという。その3年後の1877年(明治10年)に西南戦争が勃発した。
昭和になると将門を祭神に復帰させる嘆願運動があり、1984年(昭和59年)に将門は本社に復帰した。神田明神に将門塚保存会の神輿がある。
GHQ工事事件[編集]
GHQの関連施設の工事の際、過去の不審な出来事を軽視してしまい、再び首塚を撤去することになり、1945年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が首塚の整地工事を始めた。ところがまもなく工事の重機が横転し日本人運転手が死亡した。またもや将門の怨霊説が流れ、GHQ当局に陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが中止された。
改修[編集]
2021年4月26日、将門塚改修竣工時に、神田山日輪寺住職により落慶法要式典が行われた。