射 援(しゃ えん、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将[1]。兄は射堅[1]。妻は皇甫嵩の娘[1]。
最初は兄と共に劉璋に仕えるが、劉備が益州を支配するに及んで劉備に仕える[1]。若い頃から非常に名声が高く、そのため皇甫嵩から娘婿に迎えられるほどだった[1]。諸葛亮からも才能を高く評価されて優遇され、221年の劉備の皇帝即位の際には上奏文を書いた一人である[1]。