宮内勇

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宮内 勇(みやうち いさむ、1907年8月6日[1] - 1982年1月27日)は、社会運動家。日本共産党多数派」(正式名称:日本共産党中央奪還全国代表者会議準備委員会)のリーダーの1人[2]合田綱夫の筆名を持つ[1]

経歴[編集]

岡山県和気郡和気町生まれ。第六高等学校在学中の1928年に三・一五事件で検挙され、六高を中退、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決を受けた。1929年9月上京、国際文化研究所書記。同年10月プロレタリア科学研究所書記。1931年日本共産党に入党、農民闘争社に入り、全国農民組合全国会議派(全農全会派)の結成に参加[1]、のち全農全会派中央書記局員[3]。1932年初め共産党東北オルグとなり、東北・北海道各地で活動したため[1]、同年10月の熱海事件では検挙を免れた[3]。同年末東京に戻り[1]、1933年全農全会派の党フラクション責任者となった[4]

「多数派」の結成[編集]

1933年末の共産党中央委員会のスパイ査問事件後、ただ一人検挙を免れた袴田里見中央委員がスパイ摘発のため指示した「党員再登録」をめぐり、全農全会派フラクと党中央が対立。1934年3月山本秋を中心とする日本消費組合連盟(日消連)中央フラクションの支持を得て、宮内の執筆になる「日本共産党△△××細胞会議の声明」を発表、党中央のセクト的極左主義・官僚主義を批判した[4][5]。5月1日付の第2次声明で袴田をスパイと断定、5月25日には△△××細胞会議、関西地方委員会、江東地区細胞会議、全協関東地協フラク、全農全会フラク、日消連フラク、中国地方オルグ団有志の7者連名で日本共産党中央奪還全国代表者会議準備委員会(いわゆる「多数派」、「多数派分派」)を正式に結成した[4][6]。「多数派」という略称は、袴田1人の中央委員会に対し、自派が党内多数派を形成していることから機関紙を『多数派』(7月創刊)と命名したことに由来する[7]。これに対し党中央は6月10日付で全農全会フラク、山本秋、江東地区細胞の3者を「スパイ挑発者」として一括除名した[6]

多数派には当時かろうじて残っていた党組織の大半が結集していたが、1934年10月初めに山本・宮内が立て続けに検挙され、さらにコミンテルンが9月に党中央と多数派の統一を求める論文を発表、翌1935年8月には袴田を全面的に支持し、多数派の即時解散を命じる論文を発表した(野坂参三執筆)。獄中にあった宮内など、コミンテルンの支持を期待していた人々はこの論文を知って落胆し、残存していた多数派関西地方委員会もコミンテルンの批判に従い、1935年9月に解体を決議した[8]

検挙後[編集]

1936年12月肋膜炎の悪化のため保釈。第1審で懲役4年の判決を受け、1937年6月入獄。1939年11月仮釈放後、経済情報社に勤務。1941年6月般若豊(埴谷雄高)らと雑誌『新経済』を創刊[4]。敗戦後、獄中18年の同志たちに対し、全国的指導の任に就く前に知識や情報を得る期間を持つように進言したが受けいれられず、復党を断念[9]社会運動通信社を創立[1]、『社会運動通信』を発行した[4]。また時局研究会を主宰し定期刊行物を発行[2]、外務事務次官を務めた法眼晋作ともつながりを持った[10]。1970年代に入り「多数派」に関する著作を刊行[4]。1977年に荒畑寒村、埴谷雄高、平野謙菊地昌典渡部徹飛鳥井雅道石堂清倫栗原幸夫伊藤晃と発起人となり、運動史研究会を結成した[11]

1982年1月に74歳で死去。告別式で法眼晋作は宮内を「コチコチの反共主義のように言った」が、石堂清倫は宮内を「たんなる右翼に移ったものでなく」、「勤労者解放の新しい道を探ろうとする志を持していたであろう」と述べたという[10]花田紀凱は『日本共産党の戦後秘史』の解説で宮内について、「後に転向し、戦後は労働運動の研究家といえば聞こえはいいが、企業から資金を出させて組合弾圧などに力を貸していた」と述べている[12]

著書[編集]

  • 『地球の上の人間』 冬樹社、1965年
  • 『ある時代の手記――一九三〇年代・日本共産党私史』 河出書房新社、1973年
  • 『1930年代日本共産党私史』 三一書房、1976年
  • 『「或る時代の手記」 補遺』 社会運動通信社、1974年
  • 『猫とへちま』 冬樹社、1977年
  • 『豊多摩刑務所にて』 三一書房、1980年
  • 『転形期への省察――宮内勇縦横対談』 マルジュ社、1982年

編書[編集]

  • 『日米危機とその見透し』 新經濟情報社(政經懇話會叢書)、1941年
  • 『滿洲建國側面史――建國十周年記念』 新經濟社、1942年
    • 『20世紀日本のアジア関係重要研究資料 第3部 単行図書資料 第3期 旧満洲・中国関係資料(1) 第71巻 満洲国建国側面史上』 龍溪書舎、2005年
    • 『20世紀日本のアジア関係重要研究資料 第3部 単行図書資料 第3期 旧満洲・中国関係資料(1) 第72巻 満洲国建国側面史下、満洲帝国協和会指導要綱案』 龍溪書舎、2005年
  • 『「多数派」史料』 運動史研究会(運動史研究史料)、1979年

分担執筆[編集]

  • 経済情報社編『新体制日本の政治・経済・文化』天元社、1940年
  • 埴谷雄高『埴谷雄高全集 第15巻 思索的渇望の世界』講談社、2000年
  • 斎藤一郎著、増山太助、村上寛治責任編集『斎藤一郎著作集 別巻 追悼斎藤一郎』あかね図書販売、2011年

脚注[編集]

  1. a b c d e f 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、543頁
  2. a b 石堂清倫『わが異端の昭和史 下』平凡社ライブラリー、2001年、284頁
  3. a b 立花隆『日本共産党の研究(三)』講談社文庫、1983年、141-142頁
  4. a b c d e f 寺出道雄「戦前期日本共産党に関する聞き取り稿本」『三田学会雑誌』103巻3号、2010年10月
  5. 立花隆『日本共産党の研究(三)』講談社文庫、1983年、154-164頁
  6. a b 立花隆『日本共産党の研究(三)』講談社文庫、1983年、164-165頁
  7. しまねきよし「日本共産党論序説――その一」『情況』1976年9月号
  8. 立花隆『日本共産党の研究(三)』講談社文庫、1983年、167-170頁
  9. 石堂清倫『わが異端の昭和史 下』平凡社ライブラリー、2001年、280頁
  10. a b 石堂清倫『わが異端の昭和史 下』平凡社ライブラリー、2001年、294頁
  11. 石堂清倫『わが異端の昭和史 下』平凡社ライブラリー、2001年、286-287頁
  12. 花田紀凱「解説」、兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』新潮文庫、2008年、480頁