平野謙

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平野謙(ひらの けん、1907年10月30日-1978年4月3日)は、文芸評論家。

人物[編集]

京都市に、平野柏蔭の長男として生まれる。本名・朗。父は「早稲田文学」などに評論を書き、早稲田大学出版部に勤務していたが、1912年岐阜県の法蔵寺の住職となる。朗も1918年に得度し「秀亮」の法名をもらう。1926年、第八高等学校に入学、本多秋五藤枝静男と生涯の友人となる。1930年、東京帝国大学文学部社会学科に入学。32年、日本プロレタリア科学研究所に入る。33年東大を中退。35年、平野謙の筆名で最初の文芸評論を書く。37年、東大美学科へ再入学。40年、ドストエフスキー論を卒論として卒業。41年、情報局嘱託となる。44年教育召集されるが十日ほどで除隊。

1946年、山室静、本多、埴谷雄高荒正人佐々木基一小田切秀雄と『近代文学』を創刊、「島崎藤村ー『新生』覚え書」を発表。1949年、相模女子大学講師。50年、同教授。55年相模女子大を退職。「毎日新聞」で文芸時評を始める。1957年明治大学文学部専任講師、58年『芸術と実生活』を刊行、芸術選奨受賞。東京大学新聞に掲載された大江健三郎の「奇妙な仕事」を文芸時評で取り上げる。また明治大学文学賞に倉橋由美子「パルタイ」を推薦し、名伯楽と見なされるきっかけとなる。61年「文藝雑誌の役割ー「群像」十周年によせて」を「朝日新聞」に寄稿するが、純文学論争の発端となる。62年、明治大学教授となる。63年、『文芸時評』を刊行し、毎日出版文化賞受賞。69年『文芸時評』で毎日芸術賞を受賞。

1972年、『文学・昭和十年前後』を刊行、三派鼎立説を唱える。大江健三郎の「みずからわが涙をぬぐいたまう日」の『週刊朝日』での匿名書評で誤読をしたと大江に指摘され、同誌の書評を降りる。74年『平野謙全集』を新潮社より刊行開始。75年『さまざまな青春』で野間文芸賞を受賞。この頃、耕治人の作品にことよせて故人の川端康成を誹謗し、立原正秋の怒りをかう。76年『リンチ共産党事件の思い出』を刊行。77年日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。70歳で没。

杉野要吉は『ある批評家の肖像 平野謙の<戦中・戦後>』(2003)という大部の書籍で平野謙批判を行っているが、今では平野のプレゼンス自体が低下している。

近松秋江の評価を行ったこと、私小説のはじまりを田山花袋の「蒲団」ではなく、秋江の「秘密」と木村荘太の「牽引」としたことなどがある。