宇喜多基家
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宇喜多 基家(うきた もといえ、永禄5年(1562年)? - 天正9年2月21日(1581年3月25日))は、戦国時代の武将。父は宇喜多直家の弟の宇喜多忠家、あるいは弟の宇喜多春家といわれる。つまり宇喜多秀家の従兄弟にあたる(直家の養子になったため、義兄弟にもあたる)[1]。
生涯[編集]
宇喜多直家の養子になり、上道郡の沼城を与えられた(『妙善寺合戦記』)。伯父で養父の直家に従い、備前や美作国美作で活動する。天正7年(1579年)から直家が病気がちになったため、忠家と共にその名代として宇喜多軍を率いた(『萩藩閥閲録』『備前軍記』)。10月30日には直家の名代として赦免の礼を述べるため、摂津に在陣していた織田信長の嫡男・信忠と面会している(『信長公記』)。天正9年(1581年)2月に備前児島の麦飯山を占領する[1]。だが、毛利輝元の叔父である穂井田元清に攻められ、2月21日に討ち死にした[1]。享年20[1]。