天津乙女 (日本舞踊家)
ナビゲーションに移動
検索に移動
天津 乙女(あまつ おとめ、1905年〈明治38年〉10月9日[1] - 1980年〈昭和55年〉5月30日[2][3])は、宝塚歌劇団のスター[1]。日本舞踊家[3]。宝塚歌劇団理事[4]。本名、鳥居 栄子[1]。日本舞踊の名手であり、6世尾上菊五郎に私淑し、『鏡獅子』『船弁慶』を踊り、宝塚の日舞の伝統を築く[3]。「女六代目」と呼ばれる[注釈 1][5]。レビューに日本舞踊を融合させ、洋楽をバックに踊る日本舞踊を完成させた[3]。体の芯がぶれない隙のない身のこなし方は天才と呼ばれている。春日野八千代とならび「宝塚の至宝」と言われた。愛称は「エイコさん」。藤間流の名取名は藤間 乙女。
宝塚劇団員の雲野かよ子と池邊鶴子は妹[6]。宝塚6期生[1]。
概要[編集]
- 1905年(明治38年)10月、東京府東京市神田区小川町一番地(現・東京都千代田区)に生まれる[7]。父・鳥居政吉の長女[8]。母は鳥居静[9]。
- 1912年(明治44年)、四谷第四尋常小学校に入学。5年生で青山尋常小学校(現港区立青山小学校)に転校[8]。
- 1918年(大正7年)、青山尋常小学校を卒業[1]。
- 1918年(大正7年)6月、知人のジャーナリスト・結城礼一郎の勧めで宝塚少女歌劇団(現宝塚歌劇団)の採用試験を受け入団した[10][3]。採用試験は終わっていたが、一人だけの試験が開かれ合格。東京出身としては初めて宝塚少女歌劇団(6期生)の劇団員となった[10]。9月『馬の王様』『鼎法師』『お蚕祭』で初舞台[11]。同時期に関守千鳥、初瀬音羽子、久方静子ら4名が採用されている[10]。
- 1919年(大正8年)、『鞍馬天狗』牛若丸役で主役を務める[12]。
- 1921年(大正10年)、一家で宝塚に転居[13]。
- 1928年(昭和3年)、月組組長となる(1933年〈昭和8年〉まで[14])[15]。
- 1930年(昭和5年)10月5日、藤間流名取になる(藤間乙女)[16]。
- 1933年(昭和8年)5月、日本舞踊専科誕生と共に専科入り[14]。
- 1938年(昭和13年)、第一回ヨーロッパ公演に参加。ヨーロッパ遠征組の組長となる[17]。
- 1942年(昭和17年)8月11日、父・鳥居政吉が死去[18]。
- 1948年(昭和23年)、宝塚に労働組合が誕生すると、委員長の須藤五郎の下で副委員長[19]。
- 1948年(昭和23年)9月、宝塚歌劇団理事に就任[20]。
- 1954年(昭和29年)11月、兵庫県文化賞受賞。
- 1955年(昭和30年)3月、第一回ハワイ公演に参加。(4月まで)
- 1958年(昭和33年)11月、紫綬褒章受章[21]。
- 1959年(昭和34年)7月、カナダ・アメリカ公演に参加。(11月まで)
- 1976年(昭和51年)4月、勲四等宝冠章受章[22]。
- 1978年(昭和53年)11月10日、天津乙女の舞台生活60周年を記念したショー『宝花集』が開催される。
- 1979年(昭和54年)10月18日、宝塚歌劇団日本舞踊発表会『宝塚舞踊会』(宝塚大劇場)「鏡獅子」が最後の舞台となる[3]。
- 1980年(昭和55年)、心不全のため香雪記念病院(現・西宮協立リハビリテーション病院)で死去。74歳没。墓は東京都台東区・谷中霊園。
- 2014年(平成26年)、宝塚歌劇団100周年を記念して殿堂入り。妹の雲野かよ子も殿堂入りしたため、唯一の姉妹殿堂入りとなった[23]。
人物[編集]
- 6人兄弟(2男4女)の一番上の長女[3]。
- 芸名は小倉百人一首の僧正遍昭「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」から命名された。小林一三が天津乙女のためにつけた[9]。
- 武庫川の河川敷で発声訓練を行っていた。そのためマイクを使わなくとも、会場の隅々まで声が届いた[24]。
- 女性の酔っ払った姿を研究するため、後をつけたことがあったという[9]。
- 天才と言われるが、人前では努力している姿は見せない[9]。
- ヨーロッパ公演のとき、おそろいの袴を着たところ、すぐ自分の好きなオーバーを買いに行けと言われた。ヨーロッパでは孤児院か救世軍でないと御揃いの服を着ないので、かなり奇異に見えるという[9]。
- 日舞の名手の天津乙女であるが、瀧川末子の在団中は日舞に関して頭が上がらなかったとされる。
- 当初はアイドルとしての人気が強かったが、18歳ころは脱アイドルでやや苦戦した。キビキビとした日舞、力感にあふれる明朗な演技の評価は高い。
著書[編集]
- 『踊りごよみ』(1959年、宝塚歌劇団出版部)
- 『清く正しく美しく』(1978年、宝塚歌劇団)
- 『私の履歴書 文化人 13』(1984年、日本経済新聞社)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 六代目・尾上菊五郎を指す。
出典[編集]
- ↑ a b c d e 藤山宗利 『日本歌劇俳優寫眞名鑑』 歌舞雑誌社、1920年8月16日、143頁。 。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、382頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ a b c d e f g 『天津乙女』 - コトバンク
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、315頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ “天津乙女”. スタ☆スケ(ザテレビジョン). KADOKAWA. 2021年6月6日確認。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、331-332頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、317頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ a b 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、318-319頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ a b c d e 加藤龍一(1986)『女傑』創芸出版
- ↑ a b c 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、321-323頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、325頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、328頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、331頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ a b 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、354頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、343頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、350頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、361-365頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、320頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、372頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、374頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、380頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、381頁。ISBN 4-532-03083-8。
- ↑ “宝塚が八千草薫ら殿堂100人を発表”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2014年1月11日) 2021年6月6日閲覧。
- ↑ 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月、336頁。ISBN 4-532-03083-8。
参考文献[編集]
- 藤山宗利 『日本歌劇俳優寫眞名鑑』 歌舞雑誌社、1920年8月16日。 。
- 『私の履歴書』文化人 13、日本経済新聞社、日本経済新聞社、1984年4月。ISBN 4-532-03083-8。