大友記
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者、成立年代は不明。ただ、慶安4年(1651年)8月以前には成立していた可能性があるので、江戸時代前期の後代史料となる。
別称は『九州治乱記』(きゅうしゅうちらんき)、『九州治乱物語』(きゅうしゅうちらんものがたり)など。
内容[編集]
全1巻。大友記とあるが、実際には大友宗麟にほとんど集中した1代記である。大友記とされているのは、大友一族の系図と初代・大友能直、9代・大友親世、17代・大友義鑑(宗麟の父)、19代・大友義統(宗麟の嫡男)が登場するためだと思われる。
初代の出自は鎌倉幕府を創設した源頼朝の子とされ、母親は大友経家の娘となっている。能直は頼朝に寵愛されて豊後国・豊前国を与えられたことになっている。9代は前漢の高祖劉邦の再誕とされ、九州探題に就任したとなっている。
大友宗麟のことについては、二階崩れの変における家督相続から紹介している。大友氏にバイアスが当てられているためもあるのだろうが、大寧寺の変で大内義隆が討たれた後、陶隆房が宗麟の弟・大友晴英を後継者に迎えた際、毛利元就が山口に侵攻して陶もろとも晴英まで滅ぼしてしまったことになっている。そして、毛利氏を激しく非難する一方で、陶氏を擁護している。
毛利氏に対してかなり悪く書いており、毛利氏という悪の軍隊が九州に攻め寄せ、それを大友軍が撃退することが描かれている。宗麟については「御幼少の時より政道正しき大将」と賞賛されていたが、キリシタンとなって神仏を破却したことから大友の諸将が変死していき、耳川の戦いで大友氏は島津氏に敗北し、以後は衰退してゆくことになることが描かれている。耳川の戦いは大友記でかなり力を入れており、『太平記』などの話を入れて盛り上げている。ただ、合戦に関する日時や場所で誤りが見られるところがある。
耳川の後、大友氏に属していた国衆や大名が次々と離反する中で、立花道雪や高橋紹運らの忠節や武功が描かれている。最後は宗麟が豊臣政権に臣従し、田原氏の討伐などで幕を閉じるという、いささか中途半端な終わり方になっている。
『陰徳太平記』など、後代に成立した軍記物などに影響を与えたといわれている。